この世に存在するすべてのものは互いに何の関係性もなく、それぞれ好き勝手にバラバラに動いている結果、たまたま今の世界ができあがっているーーこれが「ばらばらコスモロジー」です。 (*「コスモロジー」とは宇宙観のこと)
だから人間はとにかく自己主張しなければ、不利益をこうむり、実りある人生を生きられない。だから自分の都合を最優先にして、目の前の人に勝つことだ、同じ業界の会社に勝つことだ、ほかの国に勝つことだ。
それには人より強くなければならないし、そう見せなければならない。人より大きくなければならないし、そう見せなければならない。強く大きいものが、その他を打ち負かして成長し、豊かになり利益をうける。
そして人間も地球上の自然も、それぞれ大宇宙とは「別」の存在であって、そうした個々がバラバラに、いってみれば好き勝手に自分の利益を最優先して生きるなかで、「人より」強いもの、大きいものが勝ちのこって、この世をつくっている。つまり「弱肉強食」です。
この宇宙観では、人間の生きる意味は自分の「外」にあります。
宇宙をこのように見る(のが主流の)社会では、人より勝っているという「優越感」が、豊かな人生の基準になります。人より大きな家に住んでいる、より高級な服を着ている、より高価な食べものを口にしている、などなど。
いまの資本主義国・日本が、そういう社会になっていますね。ネットやテレビなどのCMが毎日、大声で煽り立てているのは、これを買えば、「人よりも」豊かになれる、という優越感です。
こういう社会の欠点は、勝ちつづけないと「意味ない人生」に思え、「心の安定」も保てないことです。欲に際限がなくなる一方で、劣等感にも限りがない社会です。いつまでも人に勝ちつづけなければならない。その勝ち負けも、必ずしも本人の努力や能力だけでなく、「他者」からのさまざまな攻撃に左右される。「他者」なしに、人生の意味を悟れない社会です。
これと違って、宇宙は「ひとつながり」と見る「つながりコスモロジー」では、生きる意味は、自分の「内」にあります。
この宇宙観では、人間の本質は宇宙という永遠の「いのち」であり、人間は宇宙と一体です。個人は「ひとつながり」の宇宙のなかで、「ヒフ」という境目によってその他と区分された「部分」です。この「部分」は意識のもちようによって、本質である永遠の「いのち」とつながることができます。
大いなる宇宙と一体ということは、生きる意味もなにもかも、すでに自分の「内」にあるということです。「無尽蔵」とは、このことです。それが感じられないとしたら、「ない」のではなく、「見えていない」、あるいは「見ようとしていない」だけです。
「見える」ためには、「気づく」ことです。「気づく」ためには、「受けとる心」になることです。心がけて、意識をむけていくと、「気づく」がどんどん増えていきます。「無尽蔵」なのです。
日本人は古来、この「ひとつながり」を知っている民族でした。だから日本人は「受けとる」達人なのです。
「つながりコスモロジー」は宇宙の摂理にあっていて、宇宙のよろこぶ人間本来の生き方につながります。人間の生きる意味は、自分の「外」でなく、「内」にあります。「勝つ」ことではなく、「宇宙とつながること」にあります。「つながり」は、「足るを知る」に通じます。
「足るを知る」は消極的な生き方などではなく、実は自分の潜在能力を最大限に引き出す価値観です。それは、自分がコスモス(Kosmos=心をふくむ宇宙全体)と実は一体であるという真理に通じます。
これこそ日本人が古来、大切にしてきた「この世」の見方です。
「つながりコスモロジー」は、絶対です。その他の宇宙観があっても、「対決」しません。それを呑みこんで、超えてゆくだけです。
般若心経にいう「ギャーテー、ギャーテー…」ですね。超えて行け、超えて行け、であり、決して「打ち勝て」ではないわけです。ここ、重要です。
「つながりコスモロジー」は「ばらばらコスモロジー」を、含んで超えていきます。それが、歴史の必然です。
神さま、仏さま、今日の気づきを、ありがとうございます。
コメント