レイキができるようになったら、「何にでもレイキをつかってみよう」という気持ちが大切だ。
この「なんでもレイキ」の長所は、「レイキはいつでも手から流れでる」ということが体でわかることだ。早くどこかにふれてレイキを流させてくれと、手の平がいつでも準備OKになっている感覚に自然となる。レイキを流すのに、「儀式」や「おごそかな気分」や「覚悟」はいらない。ただ手を当てるだけだ。
だからレイキの強みの一つは、「ながら」。何かしながら、気づいたら即レイキを流せる。片手のみでできる。これは指圧にもアロマにも、タイ古式マッサージにもできない。テレビ見ながら、ヒザ痛に手を当てる。なんだか頭が重いので、頭に手を当てる。目が疲れているので、片目ずつ手の平でおおう。
例えば、今これを書いていて(筆記)、首の左ななめ後ろに違和感を覚えた。書きながら、左手をそこに当てる。当てながらも楽な姿勢をとる。夢中で書いてひと段落して手をはなすころには、違和感はなくなっている。というか、だいたいは手当てしたこと自体、忘れてしまう。それか、しばらくして思い出して、「そういえば朝、首にへんな感じがあったけど、なおったんだよな」と、何かしながらボンヤリ思い出すくらいだ。
そしてこのとき、結果よりも、自分で手を当てるんだという発想が、一番大事だ。
だって、なおる、なおらないという結果は、受け手自身の生き方による。第一、なおるなんて結果は、宇宙が出そうと思えばすぐにでるのだ。宇宙が求めているのは、人間が、「この痛みを癒そう」と心の動きを起こすこと。そして実践することだ。だからレイキヒーラーは、宇宙を喜ばすという点ではレイキを実践しない多くの人々より有利だと、思う。レイキを流すという実践を、いくらでも「ながら」でできるからだ。他の手技療法(指圧など)にはできない。
レイキなら片手でもできる。そして、「ながら」でできるということは、日常生活という基本舞台をジャマしないということだ。
かつてレイキのアチューンメントを受けたときのこと。マスターの説明中、私の向いに正座している女性の助手が、片手をずっと自分のお腹に当てていた。両手がふさがらない限り、いつでもどこでもレイキはできるんだということを、この助手の姿で教わった。この姿との出会いは、私の財産だ。
「ながら」がすごいのは、何をしているときでも常に自分の健康を気にかけているからだ。自分の心と体にいつでも気くばりするということが尊いのだと思う。宇宙からタダでもらった体を、いま、ここにもっているのだから。
レイキの手を当てるというのは、自分(と他者)の健康を気にかけることの身体的表現にすぎない。大事なのは、常に気を向けることだ。
もう一つ。私が「ながら」のすばらしさに気づいたのは、ウォーキングと自転車通勤の下地があったからだ。特にクロスバイク(スポーツタイプの街乗り自転車)で、日に往復20キロ、週6勤をつづけるなかで、自転車通勤がただの体の移動ではなくて、スポーツにも小旅行にもなると知ったのが、いい経験になった。スポーツも旅行も、専用に時間をとらなくても、「ながら」でできる。
そして仕事がはねて自転車で帰宅するとき、途中でおりて15分間、歩く時間を毎日とった。そのとき左手を腰に当ててレイキを流しながら歩いた。健康法も、なにも専用に時間をとらなくてもできる。大きな発見だった。
普段から、常に自分の心身に意識を向けること。時間をとったときだけやって、それ以外のほとんどの時間には自分の健康から目を背けている…というのはイケてない。というより、もったいない。それでは、病院や医者にいって、「1時間からだをあずけるから、治療しといてね」と他人まかせにする姿勢と同じだ。
そういう意識のありよう自体が、病気というお知らせ(生き方が間違っているよというメッセージ)を自分の宇宙に出現させている根本原因だろう。「アンタ、自分の心と体に意識を向けなよ」という宇宙からのお知らせが病気なのだ。なぜかといえば、「自分のこころと体」こそが、私がこの物質世界に存在できる基本だからだ。
「ながら」はすごい、日々の暮らしが大事だから、というお話でした。
神さま、仏さま、今日の気づきを、ありがとうございます。
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