日本人の「ホンネとタテマエ」が日本独特の文化で、外国人には理解しにくいようにいわれます。ネットの記事、動画、テレビ番組などで、これまでに何度も見聞きしています。最近も日本在住の外国人が投稿する動画サイトで、いくつか見かけました。私もこれまでずっと、「腹芸」とか「根回し」なんかと同じような、日本人にしか分からない文化なんだろうと感じていました。
しかし、よく考えてみれば、思っていることを100パーセント口に出したり書いたりする人は、たとえ外国人でも、いるわけがありません。人間だれしも、そんな生き方では世の中を生きていけません。当たり前な話です。
どんな国でも人間である以上、思っていても自分を守るため言わずにおくとか、相手を立てておけばトクだから自分の真意とは反対のことを言っておくとか、そういう人づきあいを必ずしているはずです。いつでも本心丸出しでしゃべって世間を生きるなんてことは、たとえどんな精神文化の国であってもできません。
ではなぜ、「日本人の本音と建て前」が世界でも独特の文化のように強調されるのか?それは単に、日本人がその使い分けに、外国人よりもずっと意識をむけて、気をつかっているからだと思います。自分と相手の関係だけでなく、世の中全体が互いに気持ちよく流れるように、日本人の「処世術」はより高度に組み立てられている。そういう面が、外国より強いからです。
日本という国では、相手を思いやり、気づかい、相手の気持ちを察し、お互いに少しずつ譲りあい、少しずつ我慢しあって、みんながより気持ちよく快適にすごせるよう、少しずつ努力しあう。その長い歴史のつみ重ねの末に、日本社会はでき上がっています。
人さまは神さまであり、自分と同じようにその人にとっての「オレの宇宙」を生きているのであり、だから自分の宇宙を尊重してほしいのと同様に、人さまの宇宙をも尊重する。そうやって日本という社会は、より円滑に、より安全に、より効率よく、循環しています。
日本人としては口幅ったいですが、結局のところは日本人の精神力が、世界でもなかなか見られないほど強くて、人として良い意味で「ガマン強い」から、このような世界に例を見ないような「人間の社会」が実現しているといって構わないと思います。日本人はこのことを、もっときちんと自覚していいと考えます。
311の大震災のときに日本人が見せた強靭な精神力は、困難な状況から立ち上がる「根性」の面だけでなく、そのようななかでも人さまを気づかい、思いやって、互いに礼儀正しく接しあうという「礼節」の面でも、自然に発揮されました。諸外国では驚嘆の目で日本人のこうした行いが評価されたと日本のメディアでは報道されましたが、どれも日本人にとってはそれほど特別なことでもない、ふだんからやっていることをやっただけ、くらいの認識でしたね。
だから外国メディアから「どうして、あんなふうに落ちついて互いに譲り合って行動できたのか?」と尋ねられても、誇るどころか、中途半端に笑いながら「日本人はみんながやることに同調する性質なので…」程度のあやふやな答えしかでてこない。ここには別の意味で、いまの日本人の問題が現れていますが、ここでは書きません。
日本以外の国の人たちについていえば、思ったこと、感じたことの全部を口にしないにしても、ガマンできずに口にしてしまう傾向が、日本人よりはるかに強いのではないでしょうか。大事なのは、それを良くないととらえるか否かです。
日本以外の国の人たちは、思ったことをそのまま口にするのを「良いこと」と考えている人が多いように感じます。「私たちはストレートで、はっきりしている」というように、肯定的にとらえる傾向が強い。とくに欧米の国の人たちに多い印象です(特筆すべきは、最近は日本人でも外国人のこうした価値観にたって、逆に日本人の精神文化を頭から見下す傾向が強まっているように見える点です)。
要するに、人さまへの「気くばり」「思いやり」文化の、国ごとの差が「ホンネとタテマエ」文化の濃さの差になる。日本ではおそらく、その精神文化が世界一重視され、人々の意識も向けられて強調もされる。それが、外国人のうちそういった文化がないか、きわめて薄い人たちからみると、「理解できない」とことさら話題になる。そういうことのように、私には見えます。
さて、人を思いやり、気づかい、迷惑をかけないような心構えで暮らす。こうした心がまえの程度の差は、単なる「文化の差」(カルチャーギャップ)で済むことでしょうか?人さまを尊重する心は、自然を尊重する心にも通じます。自然を尊重しなければ、人間は絶対に、この地球で生きていけません。
神さま、仏さま、今日の気づきを、ありがとうございます。
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