運動選手、芸術家、起業家などさまざまな分野で2世がいます。すぐれた親と同じ世界に足を踏み入れ、親から受け継いだ「素質」をのばして、名選手や名人になったと評価されます。
しかし自分のこれまで見聞きしてきた経験からして、「素質」というのは、かなりの部分が幻想にちかいと思います。その分野で優れた成績をあげるべく、意識を一生懸命その分野に向けつづけることが大事なのであって、「素質」の大小は実は、二の次なのではないでしょうか。
人間の意識というのは、なにかに向けつづけると、その対象物に力をあたえ、その成長をうながします。うまくいえませんが、「ヘラクレスとピンクの玉(人によって細部に相違のある故事かもしれませんが)」のようなものです。実生活でも悩みごとを気にし始めると、どんどん大きくなっていきますね。あれと同じです。人間の意識というのは、すごい力を持っています。
ですからむしろ、「素質」とは「一心不乱な意識状態」の別名だと、思います。親が世間に認められた偉大な選手、不世出の大師匠だから、オレもアタシも優れた「素質」をもっているはずと、たとえば本人が思いこむ。リクツ抜きで信じ込む、その心のありよう自体が潜在能力を引きだして優秀な人材に化けるのであって、「素質」という万能薬が原因しているように受けとるのは、人間の錯覚にすぎない。そう考えます。
その世間的な意味での「素質」が全く起因しないわけではないでしょうが、実は効果は比較的小さいと思います。人間のいまいった「意識」の力に比べれば。「素質」というものが本当にあるとしたら、「思いこむ」ということに没頭できる能力でしょう。
これは別項に書いた、プロ野球の野村克也監督(故人)の「ピッチャーのクセがどんどん出てきた」話につうじる話です。人間の意識の力って、計り知れないですね。
というより、宇宙の計り知れない力が、そのミニチュア版である人間の意識の持ちようによって、そこに噴出する、という解釈が自然なのかもしれません。
やはり人間は、150億年かけて創られた「宇宙の自己認識器官」なんですね。
神さま、仏さま、今日の気づきを、ありがとうございます。
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