昔の日本人は、「お天道さま」(太陽)をいつも心にいだいていました。「道」つまり「人としてのただしい生き方」の基準です。いまは日常生活で聞くことはほとんどなくなったみたいですが、私が子供のころは、当たり前に聞いた言葉です。
何かあるたびに、親や祖母から「誰も見ていなくても、お天道さまが見ているんだよ」「だから人間は、悪いことはできないんだぞ」と、教わったものです。大人になって、その「お天道さま」は自分の「外」のどこかから見ているのではなくて、実はほかでもない自分の心のなかにいるんだ、とわかるようになりました。この「お天道さま」が、ときおり世界から称賛される日本人の自己規律のもとになっていると思うのです。
昔の日本人には、この単純明快な自己規律が深く浸透していて、かなりの成果をあげていたと思う。酒やタバコは20歳から、といいながらも、店頭では年齢証明なしでその両方ともふつうに買えた。これを知った外国人が、「ウソだろー?それだったら、未成年がみんな酒もタバコもやりたい放題でメチャクチャになっちゃうだろ?」と驚いたという話を聞いたことがある。アメリカに留学した何人もの日本人からも、「向こうじゃ、大人でも身分証明書をみせなきゃ酒もタバコも買えないんだよ」と聞かされたことがある。彼らの国では年齢証明を厳しくしないと「でたらめになっちゃう」。自己規律が弱いか、ほとんどないから。ところが日本では、反則するものが一部にあっても、それが決して「みんな」にならない。「メチャクチャ」になることはない。自己規律がしっかりと作用しているから。
この話と似ていて日本でよく見られる光景に、駅のホームから改札への階段を上る人の列があると思う。日本の駅では、階段をだいたい左右2分割か3分割(両すみを「下り」、真ん中を広く「上り」}にして塗料などの印か金属の手すりで区分してある。着いたばかりの電車から下りていっせいに階段下に集まる人たちは、長い行列をなして上りの区分を上がる。このとき次の電車の到着時刻まで間があると、下り階段は人がいないか、ごく少ない。なので「階段を上るときはきちんと列をつくって」という礼儀はみな心得ているが、ここまで長い列で、ここまで下り階段がすいているならと、下り階段を上ってゆく人がたまに出てくる。私自身も状況をみてときどきそうすることがある。しかし、それが決して「みんな」がやって「メチャクチャになる」ことは、ない。この「反則」を今日した人も、この反則は非常手段だと自分なりにわきまえている。いつもはしっかり列をまもるという軸はゆるがない。それは、反則ばかりしているのは自分として気持ちよくないから。つまり自己規律だ。だって、そうでなければ日本の駅のホームは、とっくに毎朝毎晩「メチャクチャ」になっていて、世界に有名なダイヤとおりの正確な運行など実現しようもない。
このお天道さまとは、実は自分自身なのだろう。自分自身が見ているのだと思う。
すぐにばれるから、法律で罰せられるから、でなく、自分自身のなかにこうした善悪の基準を、日本人はもっています。人間という存在が宇宙のありようを決定しているらしい。宇宙のなかに自分がいるのだけれど、同時に、自分のなかに宇宙がある。自分のなかに「お天道さま」がいる、ということですね。「オレの宇宙」ですね。
私は宇宙と響きあいながら「いま」「ここに」に生かされている。「オレ」の思うことはたちまち宇宙にさざなみのように伝わり、それにこたえて宇宙が形づくられ、その宇宙を「私」が自分で体験する。
つまり、自分の人生は自分で創っている。いいかえれば、自分がよい考えをもてばそれに応じた人生を生き、良からぬ企みをもてばそれに応じた人生を生きる。すべて自分に返ってくる。宇宙はただ「こたえてくれる」だけだといいます。これはたとえば、米国のジョセフ・マーフィーだのナポレオン・ヒルだののいわゆる「成功哲学」や、エドガー・ケイシーの世界観などとも一致している。
日本の昔話には、こうした日本古来の宇宙観の反映されたものがすくなくありません。いいことをすれば、いい目にあう。よくないことをすれば、よくない目にある。「私」と宇宙が一体であるということを簡潔に、身近な話題でわかりやすく、教えてくれています。「花咲かじいさん」などはその代表例ですね。
子供のころからこうした教えを両親や祖父母から聞かされるなかで、昔の日本人は「お天道さま」を心にいだく、自己規律の高い大人になったのです。もちろん例外はあり、犯罪者だって日本にもいないはずはないけれども、少なくとも戦前までは、もっといえば、江戸時代までの日本人は、そうとうに自己規律にすぐれた、心の安定した、本当自身をもったたくましい人が多かったろうと思います。
そして「お天道さま」がいまの日本でほとんど消滅の危機にある一番の原因は、文化の欧米化にあると思います。「ばらばらコスモロジー」による日本の心の侵略ですね。自分と宇宙が一体だ、「お天道さま」がいつも見ている、という宇宙観がくらしのなかで語られなくなった。反対に、「モノが好き勝手に散らばっている宇宙のかたすみで、それらとは何のつながりもなしに、自分は生まれてきた。何十年か生きて、死んだら無になってオシマイだ」という宇宙観に、いまの日本の子供たちは急速に染められているのです。
こうした状況が進んだのは、すくなくとも明治維新以来であり、より深刻になったのは、戦後、米国の占領下にはいってからでしょう。その後、白人の宇宙観の流入が広範囲につづくなかで、「お天道さま」が日本人の心のなかから消滅しつつあるのが日本の現状です。
「お天道さま」は、自分をエネルギーあつかいしている文化です。なぜって、人が見ていないから悪いことでもするというのは、しょせん「モノの世界」にしばられているからです。こういう人は、「ヒフの内側」しか生きていない人です。人と自分がばらばらに存在しているという見方。自分の心のなかの思いとまったく関係なしに「この世」があると思っているから、誰かが見ているか否かに自分の行動基準をおくのでしょう。
そして結局は、そういう行動規範では、「本当によい生き方」つまりは宇宙の喜ぶような、もっといえば宇宙の進化の「道」にそった、一者の臨在を受けられる生き方、暮らし方は望めません。つまりは、円滑でない、生きにくい人生になりがちだと思います。どうやら、人間というのは本来的に、そういうふうに創られているようです。「宇宙の意思」によって。
日本人の文化には、宇宙との融合を通じて本当に円滑に生きられる、その人個人にとってもありがたいこうした暮らしの規範がたくさんあるようです。というより、伝統的な日本人にとっては、「道にしたがう」こと自体が、人生そのものなのではないでしょうか。
こう考えると、日ごろの人間関係でケンカするのは、いってみれば「モノレベル」の対応なんでしょうね。
神さま、仏さま、今日の気づきを、ありがとうございます。
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