お店の「準備中」は、「気」に敏感な心ならでは

 日本では、飲食店が営業していないときは、入り口に「準備中」と表示します。私が子供のころは、100パーセントこの表示でした。「休業」、「休憩」、「休み」などという言葉は、選ばないのです。


 これは、「営業中」という状態へむけて準備しています、という前向きな表現です。もっともお客にうったえたい「営業中」という状況を念頭に、そこへむかってことが進行している最中です、という肯定的な表現です。この言葉のえらび方に、この世の「気」の流れにたいする昔の日本人独特の敏感さが表れています。

 海外にはおそらく、こういう発想はないのではないでしょうか。同じ場合に、英語でCLOSED(閉店中)と表記すると、「営業中」へむかうエネルギーの流れを止めてしまいます。文字通り「もったいない」(国連で称賛された日本語。モノをエネルギーとして見る日本人の細やかな目線があったからこそ生まれてきた言葉です)。

昔の日本人は、この世が精妙な「気」というエネルギーでできていて、それが肯定的なものだと感知していたのだと、思います。こうした感覚は、最先端の科学の成果とも親和性が高いように聞きます。

 おなじような感受性は、日本文化のいたるところに見られます。根っこにあるのは、モノに対する日本人の鋭敏な感覚です。モノや「いのち」をいつくしむ、愛情のこもった視線です。それをとおして、モノは究極的にはエネルギーだと、昔の日本人は感受しえた。というより、最初から日本人にとっては、モノとは神の化身なのです。「すべてのものに神さまがやどっている」という宇宙観なのですから。


 ほかにも例えば、玄関でのクツのおき方にも日本人の「気の流れ」への鋭敏な感覚が表れています。日本人は、帰宅すると玄関でクツをぬぎ、つま先が外へ向くようにそろえます。これが古来の礼儀なので、面倒くさくてできないときは、心のなかで舌をだしています。

 かつて高校の剣道部の合宿で、みな忙しさにかまけて玄関で不揃いの方向にクツを脱ぎ散らかしてしまいました。それを見かけた50才の先生がまゆをしかめて、「ハアー!」とため息を吐いたその音を、いまだに覚えています。大勢でひとつの場所に集まったときのこういう礼儀しらずは特に、昔の年配者には好かれないことでした。


 クツをきれいに揃えるというのは「ただの礼儀」ではありません。歩きだす方向にむけておいたクツは、エネルギーがその「場」になじんで、次に履くときに円滑に歩きだせるということが、量子物理学的にいえるのだそうです。日本人自身が聞いても、へえ~という感じですがね。

 これなども、家族や客人の無事な出発をこまやかな視線でふだんから願うなかで、この置き方がいいみたいとの感覚が「礼儀」になり、それを美しいと感じる感性がDNAにしみついたと考えるのが自然だと思います。

 こういうところにも、レイキが日本でこそ「発見」された理由が表れているのです。

 しかしながら、ここ10年ほどでしょうか、英語文化へのあこがれからか(というより白人文化への「へつらい」にも感じてしまいますが)、日本人経営の日本のお店で、後ろ向き表示「CLOSE」をかかげているのをよく見かけるようになりました

 別に細かいことは考えてない、というお店がほとんどなのかもしれませんが、せっかくの自分のすぐれた伝統文化を、頼まれてもいないのに自分から捨て、宇宙の本質に鈍感な「文化」をありがたく頂戴している姿にも見えてしまいます。口のきびしい文筆人から「ドレイ根性」といわれそうな光景です。

 日本の「準備中」の表示には、お店の繁栄を宇宙の摂理にそってうながす合理的な理由があります。古いからこそ価値のあるこの文言を店先に掲げて、日本中のお店が商売繁盛となりますよう、お祈りいたします。

 神さま、仏さま、今日の気づきを、ありがとうございました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました