日本の街のいたるところで、「立ち入り禁止」の意味で黄色いプラスチック製のクサリが張りわたしてあるのを見かける。日本在住の外国人の目には、「こんな簡単なモノだけで侵入をやめるなんて、日本人は幼稚だ」と映るらしい。
しかし、実はここには、日本人の高度な自己規律が表れている。それは災害時でも落ちついて人間性を失わない日本人の強靭な精神力にもつうじる。さらに、ここには日本人の「内」なる高度な空間認識力が表れている。今日は、そんなお話だ。
日本の家のなかで間仕切りにつかう障子、ふすま、屏風、ついたて。これらの道具はみな、「黄色いプラ鎖」と同じだ。自己規律の高い日本人ならではの空間の仕切り道具。人の移動を物理的、強制的に、外からの力で止める道具ではない。住まう人間の自己規律を育て、維持増進する「ほのめかし」道具に過ぎない。
かつての日本人は、こういう家に生まれ育って、知らぬうちに自己規律が養われた。「自己規律」が妥当でなければ、「内なるモノサシ」といいかえてもいい。自分の「内」に、行動規範という素養を身につけた。
逆に、欧米で生まれたドアという道具は、いってみれば法律や刑罰など、外的強制力と同じものだ。
日本人はそういう強制(「外」のもの)を必要としない。というより、日本人の高い自己規律から見れば、そんな外からの強制道具は、「無粋」なのだ。そんな硬くて分厚い物体でなければ空間を仕切れない人間は、万物の霊長としては、劣った存在なのだ。
もっといえば、「オレの宇宙」の空間を仕切るモノサシを自分の「内」にもってはじめて、万物の霊長といえる。日本人にとっては、それくらいの感覚だったのだろうと思う。
そして、日本人が住居そのものをモノ扱いでなく、エネルギーあつかいできる民族だからこそ、障子もふすまも生まれたのだ。逆に、欧米では住居をモノとしか見れない精神文化だからこそ、障子もふすまも生まれなかった。
これは文化の「差異」というより、宇宙の本質を洞察する力の「差異」だ。私たちの宇宙がエネルギーでできていることは、もう2500年前にお釈迦さまが看破している。それからずいぶん遅れたが、現代科学でさえ100年前になってから、E=MC2(この世は物質でできているが、その本質はエネルギーである)を提示できている。
さて、「壁に耳あり、障子に目あり」は、実際にこのとおりだったという。昔の日本家屋で、壁は音を遮断せずに漏れるままの道具だったし、障子は目線を遮り切れる道具ではなかった。聞こえていても聞こえないふりをし、見えていても見えないふりをするのが、昔の日本人の習いだった。
それで人間の営みが円滑に可能だったのは、日本人の心の「内」では、しっかりと遮断されていたからだ。空間を仕切るモノサシを心の「内」にもっていたからだ。つまり、ここでも「壁」と「障子」はエネルギーとして扱われた。
また、プライバシーという秘密をもつことが「個の確立」ではない。日本人の「個」は、家のなかでも個室をもたず常に大勢の人間と交わるなかで作りあげられるものだった。だから伝統的な日本家屋に、個室はない。西洋では壁とドアで仕切られた「個室」が当たり前だ。ここにも宇宙観の違いが反映していると思う。
そもそも日本人は、「秘密」をもてるとは思っていない。なぜなら「お天道さま」がお見通しだからだ。自分の了見で自分の宇宙が創られ、それが自分に返ってくる。ひそかに心のなかで思ったことは、みんな自分の宇宙に投影されて、その宇宙を自分が経験するのだ。
これとは反対に、欧米文化では「秘密」をもてると考える。自分の了見と自分の経験する宇宙に因果関係などないと見るから。心の「内」にお天道さまなどもたない。基本的には、人さえ見ていなければ、つまり「外」から罰せられる恐れさえなければ、なんでもやる。自己規律がないというか、少なくとも日本人とくらべて、きわめて希薄な文化にみえる。
さて、歌舞伎では、屏風一枚で空間を遮断する演出が多用されるという。これは昔の日本人の空間認識を反映させたもので、まさに「壁に耳あり、障子に目あり」だ。
つまり、歌舞伎の屏風は、現在の黄色いプラ鎖と同じものだ。それは、空間を心のなかで仕切るという日本人の高度な自己規律ゆえに実現可能な「道具」なのだ。
*田中優子『未来のための江戸学』を参考にしました。
神さま、仏さま、今日の気づきを、ありがとうございます。
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