日本の武道や芸事では、口伝(くでん)が重要視されてきました。師匠が弟子に直接会って、口伝えで教えるということです。なぜなのか?自分のワザなりコツなりの秘訣をほかにもらさないためだと、思っていました。いわゆる「門外不出」です。もっともらしい理由をくっつけても、それは建前で、自分の世界をまもりたいのが本音だろうと。
昔の日本のマンガや小説には、この人だ、と決めて弟子入りした若者が、師匠の家に住み込んで修行を始めるが、掃除洗濯、フロ沸かしや買い物など雑用ばかりでちっとも肝心なワザを教えてもらえないでクサる、という場面がよくありました。
私の台湾出身の知り合いも、30年前に知り合ったころ、「すし職人になりたくて来日し、すし屋に住み込みで働きはじめたけど、毎日雑用ばかりで少しも寿司の握り方を教えてくれなかったので、やめた」と、語っていたものです。師匠と弟子の関係、もしくは、ある世界で修行する者のひとつの姿として、この「同居で雑用」は、いわば日本の「文化」だったといってもいいかもしれません。
なぜこんな方法をとるのか。同居しても、しばらくはロクに技術そのものは教えてくれないのか。これをどう解釈するか。一つには、「かくして秘密にすることによって、そのものの価値をたかめる」という目的、効果もたしかにあると思います。
しかし、ある治療家は、「師匠の近くにいることで、弟子の『気』が高まる」と説明しています。「気の同調」のため、ということです。高い波動の師匠が、低い波動の弟子をつねに近くにいさせて、つまり弟子の波動を引き上げてやるということです。これは解釈によっては、もっとも効率的で、科学的で、親切な方法ということになります。
私はこれに、自分自身でレイキやお念仏などを実践するなかで気づいたことを付け加えたいと思います。それは、師匠が弟子の目の前でしゃべることで、自分の脊椎(せきつい)を振動させ(お念仏と同じですね)、言霊をじかに弟子に浴びせるためです。近くにいて、声に出して教えるのがミソです。
だからこそ、書いたものを読むとか、人を介して教わるとかはダメ、口伝でなければ、とされたのだと思います。かならず師匠本人に直接に会って、目の前でしゃべり言葉で教わる。そのことで師匠自身と言霊の「気」を浴びる。弟子は自分の低い振動をより高い方へ同調させてもらえる。
だから年中、師匠の「身のまわりの世話」つまり各種の雑用をするわけです。師匠とおなじ屋根の下で、もっとも有効に師匠の「振動」を浴びられる近さで。
昔の日本人は、「量子物理学」は知らなくとも、「気」の同調こそが一番効率のよい教えになることを感じていたのだと思います。そのうえで、同居する愛弟子の「気」が高まってきたころ合いで、「門外不出」の技を少しずつ伝えていった。そのように解釈します。
「バラバラコスモロジー」には「日本のこころ」の本質が見えないという、好例ですね。外国人の目には理不尽で薄情としか映りません。
しかし「日本のこころ」(つながりコスモロジー)でみれば、これは宇宙の摂理にそった本当の意味でり効率的で愛情ぶかい教育法なのです。
「日本のこころ」って、やさしくて、たくましいなあ。
神さま、仏さま、今日の気づきを、ありがとうございます。
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