英国人の紅茶好きは有名です。昔おつき合いのあったリバプール出身の若いカップルからも、それは伝わってきました。「紅茶は絶対に熱くなくちゃ」と、米国のアイスティーを顔をゆがめて酷評したのが印象にのこっています。英国人なりの紅茶に対する思い入れがあるのだなと思いました。
一方、日本人は古くから緑茶に親しんできました。家族だんらんの部屋を「お茶の間」と呼ぶくらい、お茶は私たちの暮らしになじんだ嗜好品です。「日常茶飯事」という言葉にも表れていますね。
もともとお茶は、遣唐使によって中国から伝わったものです。その中国でも古くから様々なお茶が楽しまれ、それなりの「飲み方」があるようです。それは、世界のほかの国々でもおなじで、自分たちなりのお気に入りのお茶とたしなみ方があるのだと思います。
しかし、日本人が外国人と大きく違うのは、お茶を飲むという単純なことを、「道」にしたことです。「茶道」ですね。「道」ということは、宇宙とつながるということです。英国人も中国も、ほかのどの国のひとたちも、こんなことはしていないし、できませんでした。
では、なぜ日本人は、ただお茶を飲んで「ああ、おいしい」でおわらせずに、「茶道」にみがき上げたのか。あるいは、そうせずにいられなかったのか。
それは、昔の日本人のくらしそのものが、神さまとの交流だったからだと、私は思います。この大きな基本があってはじめて、お茶にかぎらず、くらしに起きうるあらゆることを「道」にしてしまう日本文化が発展したと考える方が、自然です。
ただ花を生けるだけのことを「華道」にみがきあげる。香りを楽しむだけですまさず「香道」にそだてあげる。棒でたたき合うだけでなく「剣道」に、取っ組み合いや殴り合いにおわらさずに「柔道」「合気道」「空手道」にねりあげる(相撲も「相撲道」という言葉がありますね)。
現代日本でも、例えばラーメンづくりを「ラーメン道」、すし職人の仕事を「すし道」などと表現しても、日本人なら違和感をおぼえません。
むしろ、あらゆることに「道」をみいだす発想こそが、日本人にとっては、自然なことなのです。それは、神道の「やおよろずの神々」(すべてのものに神がやどるという考え方)にも、禅の作務(さむ=すべてのことが修行になるという考え方)にも通じる発想です。
つまり昔の日本人は、宇宙がひとつながりで、人間がその一部として「現世」に生かされている存在であることを、無意識にも「体感」しながら日々を暮らしていたのだと、私は思います。
神さま、仏さま、今日の気づきを、ありがとうございます。
コメント