武道という「いのち」の営み

 これまでいろんなスポーツに親しんできて、その楽しさや爽快さ、人間を成長させてくれる面を、自分でもわかっています。またサッカーや野球その他の種目で、自分の母校や地元代表チーム、とくに日本代表チームがワールドカップやオリンピックなどの世界大会で勝利すれば、すなおに感動します。ただ、「いのちのコスモロジー」の目線からすると、それはどうかな?と感じるところもあります。ここではおもに2つの点で、武道と比べてみたいと思います。

 まず、スポーツでは、人間の体は「モノ扱い」される面が強いと思われます。体の内部を「分けて対立させる」ことで、身体を動かします。目的達成をある部分にまかせ、その他の部分を踏み台にします。「ためる」動きともいえます。そこでは、体は「分裂したもの」として意識されます。そうした意識のありようが宇宙のよろこぶものでないことを人々が意識下で分かっているから、スポーツのうまれた欧米では、「過程」にそれほどの価値を認めず、得点とか勝利という「結果」にしがみつきがちなのではないでしょうか。すべては「ばらばらコスモロジー」に起因する現象です。

 次に、スポーツでは、勝者は敗者の目のまえで、臆面もなく腕を突きあげて勝ち誇ります。例えばサッカーでは、守備陣からつないでもらったボールを最後にほんの少しさわってゴールさせただけの選手が、大げさに両手をひろげて敵陣内を走り回り、コーナーポストの旗を引き抜いたり、寝ころんだりの不作法が、「情熱の表れ」と賞賛されます。反対に、敗者は首をうなだれ、ときには試合場にうずくまったり、横たわる姿さえ見せます。「敗けた」という結果だけをもって、人間の誇りまで自分から捨ててしまうかのようです。

 また、試合中に身振り手振りや顔の表情で怒りや興奮、喜びを「アピール」することで「情熱がある」と賞賛されたり、ときには審判さえ左右します。誤審や不公平があっても、「結果」さえよければ高く「評価」されます。本人がウソやズルの結果だと自覚していても、審判という他者から「勝利」と認定されれば結果オーライとなる。そのために、禁止された薬物を「不正」と認識しながら国家ぐるみで使用する例まででてきます。これは、「勝ちゃあ、何やってもいいんだ」という心の姿勢にも見えます。

 そうだとすれば、自分の宇宙を自分で創っているという誇りも責任感も放棄しているかのようです。自分をモノ扱いし、自分をさげすんでいるようにさえ見えます。

 これに対し、日本の武道である剣道、相撲、柔道などでは、本来、自分の体は「エネルギー扱い」されました(現代の剣道、柔道はかなり変質してしまったようなので、「本来」とひと言いれます)。モノレベルで「私」と別物である相手に「勝つ」ことよりも、「私」も相手もひとつに溶けあっているエネルギーレベル(気のレベル)に自分の意識をしずめることが、武道の目標です。相手と「心のパイプをつなぐ」というイメージでもいい。そのために、体は宇宙の「気」の流れにそった、「ためない」動きとなります。

 そこでは、からだは「ひとつながり」として意識されます。一部を活かすために他の一部を切り捨てる身体操法は発想されない。こうした「体全体で対応する」日本人の心性は、ふだんの暮らしでも「なんば」という歩き方に自然と現れていました。左右同側の動きの多い「阿波踊り」など見ても、同じですね。

 次に、武道は「いのち」の営みです。「我」をなくして、宇宙と一体化することが最終目標です。ですから、目の前の相手は「敵」どころか、「味方」です。心のパイプで自分とつながって、宇宙との一体化に導いてくれ、自分の心を映してくれる鏡です。勝つという「結果」は、オマケにすぎません。

 本当の相手が鏡に映った自分自身であることは、高い志で稽古している武道家には自明です。だからこそ、相手には敬意を表し、敗者のまえで勝ち誇る発想自体がない。武蔵が巌流島で小次郎に勝って、ガッツポーズしたでしょうか。日本の武道全般にみられる「残心」も同じ発想です。相手を打ち負かした直後でも心身の集中を途切れさせないで相手に向きあう心の姿勢をいいます。倒した相手からの無益な反撃を封じて、自分だけでなく相手をも守るためです。ここにも相手への敬意、つまりは自他の「いのち」への尊敬がにじんでいます。

 そして勝者でも敗者にたいして、頭を下げます。剣道でも相撲でもそうですね。ヨーロッパ出身のあるサッカー監督が、日本の大相撲を観戦して、「勝者が敗者にたいして頭を下げるところに感銘をうけた」と語っています。また自分が敗者となっても、みずから自分の価値を放り捨てるような態度は見せません。勝っても負けても、誇りある態度に変わりはないのです。

 こうした意識のありようは宇宙のよろこぶものなので、武道を生んだ昔の日本では、「勝つ」という結果のみがあまりにも重視されることなく、「過程」が大事にされたのではないでしょうか。すべては自分も他者も「ひとつながり」という見方に起因しています。

 そして、スポーツと武道のこうした違いは、鮮やかな相違を生みます。

 たとえばテニスで、70才の世界的トップ選手は考えられません。筋肉という「モノ」に頼る面が圧倒的に大きいため、年をとって筋肉が衰えればオシマイだからです。しかし剣道では、70才どころか80才以上でも、「世界のトップ」は十分にありえます。九段範士など、まさにそうですね。「気」の力に頼る面が圧倒的に大きくて、道場での稽古にかぎらず、くらしのすべてが修練になるからです。ですから、剣道では年をとればとるほど、強くなります。欧米発祥のスポーツと、日本古来の武道との、決定的な違いです。

 ところで、日本人の全部が剣道や合気道をやってるわけではありません。当りまえですね。しかし大事なのは、武道をやって「道」を究めようという人が、たとえ一部であれ、この日本列島からでてくるということです。「道」にそった暮らし方をする日本人という広いすそ野のうえに、武道家という突出して「道」を究めようという人たちが出てくるということです。これは、江戸時代の庶民(農民、町民)と武士との関係も、こうだったのではないか。百姓は生きものを育て、天地の循環に「いのち」を学び、サムライは剣の理法から「いのち」を学んだ。百姓もサムライも、「いのち」の一員だった、ということです。

 最後に、スポーツの世界でも、世界的な名選手と評価される日本人アスリートには、こうした武道家のような心がけで取り組んでいる人が多いように感じられます。一例ですが、メジャーで殿堂入り確実といわれる好成績を積み上げたある日本人選手から、「野球がもっとうまくなりたいんですよ」という言葉が口をついてでてくる。世界最高の野球選手と評される別の日本人選手も、人に勝つこと自体より、自分の理想をかぎりなく究めるべく切磋琢磨している印象がある。また技術や成績だけでなく、すぐれた人間性を評価される日本人選手は、分野を問わず多い。スポーツは手段であって、真の目標は「人間形成」ということが、日本人には浸みこんでいるのだと思います。

 ところで、日本代表チームの選手たちが試合後、負けた日でもロッカー室をきれいに片づけて退場するのが、しばしば世界的に話題になりますね。サポーターたちも、負けても勝っても、観客席のゴミを拾ってから会場を後にする。なぜこんなことが、ふつうにできるのか?それは日本人がいまなお、ロッカー室にも観客席にも「いのち」を見いだし、自分の「内」にお天道さまという自己規律を抱いているからです。

 神さま、仏さま、今日の気づきを、ありがとうございます。

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