日本人は、生まれてから成長するそれぞれの段階で、つねに周りの状況を読む人間になるよう訓練されます。それが日本人になる、ということです。
例えば漢字の読みひとつとっても、それがうかがえます。日本語のなかで漢字は、一つの漢字に複数の読み方があることが多い。それは当然、それぞれの使われる前後の状況によって、その状況での意味あいに応じて、読み方が決まります。ですから日本人は文章を読むとき、その漢字のかかわる状況を瞬時に判断して、意味あいを理解してから、その漢字の読み方を判断します。
そもそも、日本語という言語自体が、あるいは日本文化全体が、状況を読む人間の育成器のようなものです。人間が人間個人で「ヒフの内側」だけに意識をむけていればいいという文化ではありません。自分のことだけにかかずらってはダメで、つねに周囲の状況を把握しようという感性です。いわば「神さまの視点」をもつよう育てられる文化といえるかもしれません。つまりは、「ヒフの内側」を「オレの宇宙」に一体化させる文化です。
漢字にもどっていえば、ある一文字がそこにあって、自分がいま問題にするのは「この一字」なんだけど、それはその周囲とつながって初めて意味があきらかになる。では、その周囲の状況とはどんなものか?「ひとつながり」を瞬時に読みとき、自分を宇宙に同調させる。「この一字」は「ひとつ」であって「ひとつ」でない。「この一字」だけでは存在しえない。「ひとつ」ではいられない。
「ひとつ」だけに焦点をしぼって、周囲との関係性をみないという感性は、モノをモノ扱いだけにおわらせる感性です。反対に、「ひとつ」を周囲との関係性のなかでとらえる感性は、モノをエネルギーあつかいする感性ですね。モノの本質がエネルギーであることを知っている感性です。この世がバラバラのモノの偶然の寄せ集めでなく、実は区別はあっても「ひとつながり」であることを見抜いている感性です。
漢字が中国で生まれて日本に伝来したものであっても、その漢字という文字を、日本人は日本人独自の宇宙観にしたがって、状況によっていくつもの読み方と意味あいをもつ情報工具に磨きあげたのです。日本人は文章を書くたびに、漢字という道具をつかって「ひとつながりの宇宙」を紙の上に表現するのです。同時に自分の内側に、宇宙はひとつながり、自分はひとつながりの一部、自分はエネルギーだと、刷りこんでいます。
そして日本の文化には、このように宇宙の本質を見抜いているからこういう姿になっていると思えるものが多い。
たとえば「あいまい」を好む感性も、周囲の状況をひろく見わたす感性につうじるものがあると思います。「油揚げの甘煮そば」と名付けずに「きつねそば」と名づける感性。「生卵うどん」と名付けずに「月見うどん」と呼ぶ感性。「鶏肉の卵とじどんぶり」と名付けずに「親子丼」と呼ぶ感性ーー。すべて宇宙へのおなじ目線のたまものだと思います。
日本人は、漢字混じりの文章を読み書きし、「そば」や「丼もの」を作るのだけれど、ほんとうは紙のうえに、またどんぶりのなかに、「ひとつながりの宇宙」を描いているのです。
神さま、仏さま、今日の気づきを、ありがとうございます。
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