ある初秋の夜、レイキの第四シンボルを自分にかぶせて、幸せな気分でふとんに入りました。夜中12時半に目が覚めると、リンリン…虫の鳴き声が響いていました。やや寒いので、窓を閉めようと思いましたが、せっかくの虫の声がサッシでシャットアウトされてしまうので、3~4センチだけ開けておいて、聴きつづけることにしました。
かつて日本の家屋は、自然界からの「お知らせ」をどこにいても、寝ているときでも、受けとれる作りになっていました。木を骨組みに、泥と土とワラを混ぜこんだ壁と、木と紙の障子で空間を仕切り、部屋の床には木の板か、草を編んだタタミを敷きつめました。天然素材100パーセントの住居です(「木と紙でできた家」に目をつけた戦時中の米軍が、空襲で焼夷弾の雨を降らせたのです)。
その家はまた、家族同士の「気配」が感じられる建物になっていました。それが日本人の住み家でした。「気」を大事にする民族ならではの住居です。
昔の日本の家屋は、今よりうす暗かったかもしれませんが、音に敏感でいられました。「気くばり」のしやすい住処(すみか)だったのです。そして、虫の鳴き声に「ああ、いい音色だな」とうっとりしたとき、その音からエネルギーをもらっていたのです。
子供のとき、「外国人は虫の鳴き声を聴いても、雑音にしか感じない」と聞いて、驚いたことを思いだします。日本人は「ただ虫の声を聴いて」宇宙と響きあう感性をもっていました。ただ「お茶を飲む」ということを「茶道」という宇宙との共鳴に磨きあげた民族ならではの感性なのです。
この虫たちは一晩中こんなにも鳴きつづけて、オレの眠っている最中でさえ、エネルギーを私に届けてくれているんだと、この夜、気づきました。考えてみれば、たとえばセミだって、夏の間じゅう鳴きつづけて私にずっとエネルギーを与えてくれるのです。ありがたいことです。
昔の日本人は、音に敏感であり、静寂にも敏感でした。静けさがあればこそ、ひとつの音がひきたつのだから、当然です。
静けさや 岩にしみいる 蝉の声
古池や かわずとび込む みずの音
花鳥風月をめでるのは、人間が宇宙とひびきあう大切な営みです。
現代日本人は、この「人間の営み」を楽しむ感性を、いまだ持ちえているでしょうか。
神さま、仏さま、今日の気づきを、ありがとうございます。
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