日本人は「さようなら」と別れます。この言葉の語源は「左様であるならば」。つまり「そのようであるならば」であり、もともとは接続詞でした。それが別れのあいさつ言葉になったのは、「別れる前」の相手とのおつきあいの世界を総括して、「別れた後」の世界へ入っていこう、という日本人独特の精神性からだといいます。
日本人にはこれに限らず一般的に、こういう「節目」にそれまでを見わたしてとりまとめ、次のあらたな段階に入ってゆく「覚悟」をしてから、次の舞台に入ってゆく、その「節目」を重視する性向があるようです。
自分の過去をふりかえっても、学校に入学するとき、夏休みにはいるとき、二学期がはじまるとき、進級するとき、卒業するときと、学校にかんして思い出すだけでもこれだけの「節目」に儀式なり先生からのきちんとしたお話なりがあって、こころの折り目をつけることを重んじる環境だったと思います。
海外の学校では、こうした「節目」は日本ほど意識されないように聞きます。これが社会にでたらなおさら、入社式からはじまって、結婚式、葬式などさまざまな「節目」をつけながら「人」や「過去」との別れと出会いをくり返してゆくことになります。「けじめ」や「折り目正しさ」が重視されるわけですね。
これは日本人が、「場」というもののエネルギーに敏感だからこその独自の文化だと、私は思います。いままでの「場」から次の「場」にうつるたびに、その「場」に新鮮な心もちで臨む。だらだらと時間と空間のうえをただようみたいに生きない。あらたな「場」にはあらたな新鮮な心の姿勢でのぞむ。そのことが自分にとって、その「場」にとって、また宇宙にとっていいことだと、日本人は昔から知っているのだと思います。
ではなぜ、そうした民族的性向が身についたか、と考えながら今日、ちかくの神社を参拝していて、「神道のせいだ」と、ふと気づきました。
神道は「場」を重視する宗教だと思います。独特の空間認識をします。境内という浄化された「場」と俗界とを鳥居によって区切る、境内に縄を張り巡らして「結界」をはり、その内側の「場」を浄化する。鳥居では一旦たちどまって、頭をさげ、左足から踏みだすのが「作法」です(こうした作法によって、「自分のなかの神」が立ちあがります)。新たな「場」にはいる際に、心に区切りをつけるようにできているのです。
要するに、日本人は「場」とつきあう達人なのです。時間と空間を心でこのように切り結べば、自分のため、「場」のため、宇宙のためになると、民族のDNAが知っているのです。こうした作法は神社にかぎらず、日本人ならふだんの生活でもさまざまな局面で無意識に行っていることです。
また日本人のスポーツ選手が競技場、体育館、プールなど、自分がこれから競技する「場」にはいるとき、頭をさげて「場」にごあいさつするのも、オリンピック中継などで世界中が目にする光景でしょう。これも、新たな「場」にはいるときの日本人の心の区切りの表れです。ここにも、神道の「場」の認識のしかたが表れているのだと思います。そこから出るときも、同様に頭を下げて、ごあいさつして去ります。競技場という「場」の自分に区切りをつけ、あらたな「場」に心身を入れていくからです。
世界じゅうを旅して日本に立ち寄った、ある著名な外国人が、著書のなかでこう書いています。「世界中で様々な別れのあいさつを聞かされたが、日本語の『さようなら』ほど美しい言葉はない」(リンドバーグ)。
その外国人が感動したのは、「さようなら」が人間をモノあつかいでなく、エネルギーあつかいする言葉だと感じたからではないでしょうか。自分が「いのち」として扱われているのを感じとったのです。それで心が熱くなった対価として、これほど「美しい言葉」はない、という賞賛が自然とでたのではないでしょうか。
神さま、仏さま、今日の気づきを、ありがとうございます。
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