高段者の剣が怖いのは、「本当の自分」を見るから 

 

学生時代に剣道の稽古に励んでいたとき、ずっと不可解だったことがあります。高段者(七段、八段)の先生と稽古するとき、怖いのはなぜなのか?素朴ですが、ずっと解けなかった難問です。

 稽古でないときに落ちついて考えてみれば、先生に打ちこんで返し技をくらっても(100パーセントくらうのですが)、剣道のルールの範囲内です。なにも真剣で斬り殺されるわけでもないし、鉄の棒で骨折するまで叩かれるわけでもない。防具のうえから竹刀で打突されるだけで、肉体的な苦痛などほぼありません。7段以上の先生が私「をカベに叩きつけたり、床にひっくり返して急所を踏みつけたりは、ふつうはしない。ではなぜ、怖いのでしょう?

 10数年前に心理カウンセラー養成講座にかよって心理学を学んだり、レイキやお念仏など精神世界の実践をかさねる中で、少しずつその答えがわかってきました。自分でだした答えは、心の奥の「本当の自分」を見なければならないから。人間はふだん、さまざまな場面ごとにちがう仮面をつけ替えながら、世間を生きているといいます。いいかえれば、「本当の自分」から目を背けている。なぜなら本当の自分は、根源的な悲しみをかかえているから。

 高段者の先生の竹刀は、「自分の宇宙の主人たれ」と迫ってきます。さらに、「人に勝った、敗けたでなく、お前自身はなに者なのか」と問うてくる。それは、すぐれた剣道家は「鏡」になりうるからです。心の修練度が深ければ深いほど、完璧な鏡にちかくなる。その鏡に私の心が映るので、そこに打ちこむことは自分の真ん中に踏み込むことになる。鏡に映った自分はまっすぐに、私の意識革命を求めてきます。ふだん目を背けている「本当の自分」を直視して、魂を一つ上に引き上げろと。単に肉体を鍛えてよしでなく、こうして人間性をみがく「道」なので、自分と相手との間隔を「距離」でなく、剣道では「間合い」と呼ぶわけです。「間」というのは物理的な距離ではない。こころ(エネルギー)の要素をふくんだ間隔のことです。相手をエネルギー扱いし、同時に自分をもエネルギー扱いするから、こう呼ぶ。肉体(モノ)だけの存在として向きあうなら、「距離」で片づけるだけです。

 高段者と向きあうときの感じは、心理カウンセリングを受けたときのこころの経験と似ています。カウンセリングに週一回とか決めて通い始めるとき、カウンセラーから注意点を告げられますーー「回を重ねるごとに、あなたは苦しくなっていきます。それでも通い続けてください」。カウンセラーは竹刀こそ突きつけてこないが、ずっとこちらの心に寄りそうという手段で、剣道とおなじことを迫るのです。「本当の自分」を直視しろと。

 いつも見て見ないふりをしている「本当の自分」を見なければならない。怖いのは、高段者の先生でも、その竹刀でもなかった。怖いのは、「本当の自分」を自分でまっすぐ見つめることだったのです。

 神さま、仏さま、今日の気づきを、ありがとうございます。

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