日本人の高い精神性、「コメ作り」が重要な役割    

 日本の神話では、日本人が主食としてきたコメは、もともと神さまから「これを作るように」といただいた食物です。いわばコメ作りは、「神さまからさずかった仕事」でした。だからコメ作りは「神聖な仕事」、つまりは「神と一体化する行い」といってもいいものだったと思われます。日本人は「仕事」のなかに、神さまとのつながり、神聖さを無意識的にしろ感じてきたのです。

 ※昔の日本人にとって、「仕事」といえばコメ作りであり、したがって「仕事とは神聖なもの」という考え方が日本人のDNAに刻みこまれたのだと思います。日本人が「これは仕事だぞ」といわれればイヤでもやってしまう「仕事観」の源流は、ここにあると私は考えます。現代では過労死につながる「悪癖」との指摘のみが強調されますが、「仕事観」の諸外国との歴史的、民族的な相違も、考慮して「過労死」の問題を議論する必要もあろうかと思います。

 ※ここでは「神さま」は「宇宙」と同義につかっています。「神さま、仏さま」と一緒にするように、「仏さま」とも同義です。「宇宙」は物質だけでなく心をもふくむ意味で、英語ではKOSMOSと表記します。物質のみのCOSMOSとは違います。

 そして、コメはこれがなければ生きていけない、これを育てない生き方はない、という日本人の生きる基本に位置しました。だから暮らし全般が、コメ作り中心にまわります。ものの考え方、習慣、行事など、すべて稲作を軸に形づくられてきました。昔の日本人にとって、日々のくらし全体が多かれ少なかれ、神さまをつねに意識するものだったのではないかと想像されます。

 だから生活が神道そのものになった。生活が「道」そのものになった。

 実際に、現代日本ではずいぶんと崩れてしまいましたが、神さまをいつも意識しながらの「くらし」は、私の子供のころにはまだ少しは残っていたように感じます。「お天道さまが見ている」と教えられた。よくないことをすると、すぐに大人たちから「罰(ばち)が当たるぞ」と戒められた。仏壇のまえで説教される場面は、ドラマなどでふつうに見られました。

 なかでも私にとって印象深いのが、「お米の神さま」です。たぶん私が3才ころのある日、台所で夕食後のかたずけをしている母と一緒にいて、翌朝に炊くコメを仕込むとき、私も床にしゃがんで見ていました。母があやまってコメを床にこぼしてしまった。私の目の前をチッ、チッ…と音を立てながらニスを塗った茶色い床板のうえを白いコメ粒が数個、散らばった。

 母は、「一粒でも、もったいないから」と、私の目の前で一粒ずつつ全てをつまんで、全粒を鍋のなかに入れました。「コメの一粒ずつにすべて、神さまがやどっている」という教えは日ごろから受けていました。幼い私の目は、その情景を心に刻みこみました。そのときの自分の気持ちを思い出すとき、心がおちつきます。日本人にかぎらず、人間はもともとモノを大事にすると心地よいようにできているのだと思います。

 生活のなかに神さまがいつも意識される日常は、基本的に心安らかなものとなります。311の東日本大震災のおり、日本人が暴動もおこさないだけでなく、給水所などではおだやかに列にならび、駅がごったがえしても、みな階段のなかほどはあけて座り、がれきの下から救助された年配の女性が「私より先に救助すべき人がいたろうに、申し訳ない」とあやまる姿が世界に流され、大災害にも落ちついて他者を思いやる日本人の精神性に驚嘆まじりの称賛がつたえられました。

 必ずしも理想的でなく、現地の一部から空き巣被害などが報道されたにしても、諸外国とくらべれば、日本人の基本的な姿は海外からの評価をうけいれてもいいかと、思われます。

 そして、日本人がこのように災害時にも落ちついて時には他者をおもいやれる「人間としてあるべき姿」でいられる原因のひとつは、つね日頃から神さまを意識した「くらし」をおくってきたことにあるのは、間違いないでしょう。少なくとも、昔のこうした宇宙観が、少なくなったとはいえ今なお民族のDNAに残っているからだと思います。

 そして、その基本が「コメ作り」にあったと、私は思います。つまり、宇宙的に評価されていい日本人のこうした精神性は、古代からの「コメ作り」によって醸成されたのだと考えます。

 日本人のコメ作りを、昔のように復活させられないものでしょうか。

 神さま、仏さま、今日のありがたい気づきを、ありがとうございます。

 

 

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