「お天道さま」が支え、戒めてくれる

 ふだんの生活で、人から気づかわれたり励まされたりすることが、誰でもあるかと思います。ありがたいことですね。私たちは、周囲の人たちからエネルギーをもらって、支えられているわけです。

 それで、そういう実感をもてないとき、たとえば気持ちが上向かないままのときなどは、人からエネルギーをもらえなくても、お天道さまからいつももらってるよなあと、考え方を切り替えるのも一つの方法だと思います。

 これは実際に、お日さまからは何の見返りも求められずに、すべてのものを提供してもらってきて自分がいまここに生かされているわけで、当たり前の話です。しかしそれが、日々の生活のなかではふと忘れがちになり、まわりの人からのエネルギーに期待しがちになります。

 ところが人は人の都合で生きていますから、当然、こちらの都合のいいように動いてはくれませんね。こちらの思うようなタイミングで、こちらの期待通りにやってくれるわけがありません。当たりまえです。

 しかし、太陽は毎日かならず上ってきて、私たちを照らしてくれますね。雨の日でも雲のむこうに太陽が照ってくれているから、ものが見えて生活できる訳です。生まれてこの方、朝起きてからずっと、完全な闇のなかなんてことは、あり得ません。

明るく照らしてくれるだけじゃ、ありません。太陽エネルギーが地球に降りそそいでくれるおかげで、いまの循環する地球環境が保てて、動物や植物が成長できて、私たち人間が生きていられます。私の好きな冬の日光浴も、太陽あってこそです。太陽から受けている恩恵は、はかり知れません。

 大事なのは、それに「気づく」ことなんでしょう。

 そして人さまに対しては、「与える」ことはしても、「受けとる」期待をしないことなんでしょうね。ついそれを忘れてしまいがちですが。

 人から受けとることを期待しちゃってるなあと気づいたら、お天道さま、つまりは大宇宙からすでに、いつも、有りあまるほどありがたいものをもらってるじゃないか、と思いだすことですね。そういうお天道さまを、つねに心のなかに抱いていれば、いつも心の軸がぶれないでいられるというものでしょう。

こう考えると、昔の日本人がつねに心に抱いていた「お天道さま」には、戒めのためだけでなく、自分を今日も支えてくれる存在という役割もあったかもしれません。

「誰も見ていなくても、お天道さまは見ている。だから悪いことはできないんだよ」—

私の年代の日本人なら、子供のときに一度はこう教えられたはずです。これは究極の自己規律の文化であると同時に、自分をエネルギーあつかいしている文化です。

なぜって、人が見ていないから悪いことでもするというのは、しょせん「モノの世界」にしばられているからです。人と自分がばらばらに存在しているという見方。自分の心のなかの思いとまったく関係なしに「ワタシの宇宙」が展開していると思っているから、誰かが見ているか否かに自分の行動基準をおくのでしょう。

そして結局は、そういう行動規範では、本当によい生き方、つまりは宇宙の喜ぶような生き方はできない。もっといえば宇宙の進化の「道」にそった、一者の臨在を受けられる暮らし方は望めません。つまりは、円滑でない、生きにくい人生になりがちだと思います。どうやら、人間というのは本来的に、そういうふうに創られているようです。「宇宙の意思」によって。

日本人の文化には、宇宙との融合を通じて本当に円滑に生きられる、その人個人にとってもありがたいこうした暮らしの規範がたくさんあるようです。というより、日本人にとっては、「道にしたがう」こと自体が、人生そのものなのではないでしょうか。

そうすると、日ごろの人間関係でケンカするのは、いってみれば「モノレベル」の対応なんでしょうね。自分を「モノあつかい」しているのと同じです。

こうしたときの具体的な対処法を、最後につけ加えておきましょう。

そういうときには、ちょっと立ちどまって、自分の内側に意識を沈めていって、こんな言葉を心で唱えます。

「私の心は鏡です。すべての意図を反射します」

こうすると、私個人によい意図をむけた人には良い見返りが、そうでない人にはそうでない見返りが、返ることになります。相手の本意がわかりにくい場合にも対応できて、自分の心もきれいなまま対処できます。

これなら「エネルギーレベル」の対応といえるでしょう。

神さま、仏さま、今日の気づきを、ありがとうございます。

私個人によい意図をむけた人には良い見返りが、そうでない人にはそうでない見返りが、返ることになります。

 これなら「エネルギーレベル」の対応といえるでしょう。

 神さま、仏さま、今日の気づきを、ありがとうございます。

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