「多種多様」を生みだす感性――生きものコスモロジー  

 もうずいぶん前に聞いた話で、ずっと耳に残っている言葉があります。テレビタレントで、いまは米国在住の日本人女性が、自分の娘にノートを買ったときの話です。「アメリカの文房具屋には、ノートっていったら1種類か、よくても2種類しかない。日本なら色もデザインも数え切れない種類から選べるのに」。

 米国は豊かな国で、何事も「発展」している印象ばかりだったので、「アメリカでも、そんなに無味乾燥な面があるの?」と、あっけにとられたのです。芸風通りあけっぴろげに語る彼女の言葉が、とても印象にのこりました。そのタレントの家がどこかは覚えていませんが、地方にあるからということなんでしょうか。

 しかし、日本ならちょっとした町の文房具屋なら、1~2種類からしか選べないということは、まあ起きにくい。最近でも、外国人が自分の訪日体験談を語るようなテレビ番組をときどき見るなかで、日本はなんの商品でも「種類が豊富」という感想を聞きます。

 諸外国との比較はともかく、日本では商品でもサービスでも、実際に「種類が豊富」といえるレベルにあるのではないでしょうか。同じ文房具では、ほかにも例えばボールペンの種類の多さには、日本人でも売り場で圧倒されるほどです。スーパーにいってみましょう。スナック菓子というジャンルに、どれだけ豊富な種類の商品があふれかえっていることか。

 米国のノートの話を聞いたころからでしょうか、私のなかで少しずつ深まり、定まってきた「日本人観」があります。それは、日本人は1つの世界を生みだしたら、それを「無味乾燥」な状態におかず、多種多様な姿に育てあげる、そういう「性(さが)」というか、本能をもっている、というものです(べつに大そうなことをいっているわけでもなく、一般的な日本人のなかにも、そういう認識でいる人は大勢いると思います)。

 そうした日本人の「性」の根本にあるのもまた、宇宙観ではないかと思います。一説には、多種多様の生物の宝庫である自然豊かな山が、そうした感性のもとにあるようです。米国でも中国でも、あるいは欧州でも、日本のような緑豊かで稜線もやさしい山は、あまりというか、ほとんど見られないのではないでしょうか。岩や土がむき出しになった山のイメージのほうが、はるかに強い気がします。

 日本人が昔から見ている日本の山というのは、緑におおわれ、秋になると美しく紅葉という化粧をほどこされる、やさしく美しい存在です。同時にそれは、クマ、シカ、ウサギなどの動物や大小の植物、果実、湧き水など、飲食物やら生活用品の材料(毛皮、木材など)といった自分の「分身」を惜しげもなく人間に分け与えてくれます。そして山は、毎朝、太陽という恵みのエネルギーのかたまりを吐きだし、夜にはまた自分のなかにおさめとるのです。

 私たち日本人のはるかなご先祖さまは、自分たちの生命を直接に支えてくれるそうした山という巨大な生き物に「神」を見出し、「宇宙」を感じとったのではないでしょうか。日本人にとって「神」とは雲の上の超越的な存在ではなく、いつも身近にいる、具体的で、愛に満ちた、やさしく美しい、多種多様な存在だったのです。「八百万の神」(やおよろずのかみ=森羅万象に宿っている神)という「神」観も、ひとつには「山」観から生まれたのでしょう。

 だから日本人にとって、「この世(宇宙)」は、多種多様にできている、うるおいのあるもの(少なくとも、そうあって当たり前なもの)なのです。そういう基本的な宇宙観が、日本の文房具のモノぞろえにも反映しているのだと、思います。


*日本古来の「山」に対する見方は、町田宗鳳『山の霊力』から教えをいただきました。ありがとうございます。

 神さま、仏さま、今日の気づきを、ありがとうございます。

コメント

タイトルとURLをコピーしました