「飲酒は男性文化」に納得、太陽浴に自然と感謝

 春3月、休みの朝8時。東の窓を開けて、背の高い座椅子にゆったりと体をもたれさせます。まだ冷たさの残る空気のなか、直射日光が真正面からさしこんで、顔から胴体からヒザから、しっかりと照らしてあっためてくれます。ここは静かな住宅街で、この時間には小鳥のさえずりがよく響きます。耳を澄ますと、近所の倉庫のちょっとした作業音や笑い声、路上の車の警鐘までもが、かえって静けさをひきたたせます。

 東の空から入る朝の日光、熱に、ありがたみ、やさしさを感じます。お天道さまと対話するかのような気分を味わいます。太陽に感情とこころがあるように感じます。今日もオレの宇宙に昇ってきてくれて、オレを照らしてくれて、ありがとう。毎日、毎日、この世にエネルギーを与えてくれて、ありがとう。

 太陽を浴びるというのは、本当にすばらしい。これだけのエネルギーをタダで、享受させてもらえるのです。誰にもジャマされない。自分が望むだけ、いくらでも日光を味わえるのです。天気さえよければ、毎日。ありがたいかぎりです。

 自宅でのこんな時間の過ごしかたは、もしかして生まれてはじめてかもしれません。こんな時間の使い方、なんで今まで気づかなかったんだろうと、不思議なくらいです。

 日照時間も、以前よりずっと意識するようになりました。太陽光が部屋に差し込む時刻は、1か月前には7時45分でした。いまは7時ちょうどです。ということは1か月後、5月の大型連休のころには、6時15分です。それを意識して驚いたりワクワクしたりする感覚自体が、私には新鮮です。

 こうした変化の一番の原因は、ソバ活だと思います。もともと人なみにキメ細かかった感受性が、前はアルコールのせいで1かゼロかの2択みたいに世のなかをとらえていた気がします。いま考えれば、すこし殺伐としていたのでしょう。興奮と淡々の二者択一の感じ方が大半だった印象もあります。
  
 酒を飲まなくなったいま、人生は、時間は、この世は、もう少し色彩豊かで、もう少しちがう表情をみせてくれるようになりました。それは、自分自身の受けとめ方が変わったからでしょう。

 あまりおおげさに、カッコよく言う気もありませんが、単純で無味乾燥だったフィルターが、いまはもう少しキメの細やかなものに差し替えられた感じです。
  
 気分で一番変わったのは、落ちついたこと。落ちついて、ゆとりをもって感じられるようになったのかもしれません。プラスマイナス、ゼロの地点に感受性の軸があるみたいな。前は勢いでやる感じでした。勢いがなくなるのを怖がっていたようなフシがあります。

 つまり、ほかでも書いたけれど、何かに追われているような感じです。せかされているような。それがソバ活のいまは、ない。バイクや自動車と自転車との、乗ってるときの違いみたいに、自分のいまの気分を落ちついて味わえるように感じます。
  
 時間も空間も、いまは前よりももっと均質に、境い目なく広がっているように感じています。「強くなければ」みたいな感性が、弱まったのかもしれません。

 だから「飲酒は男性文化だ」と聞いたとき、深くうなづけました。そのように自分も飲み、暮らしてきたと感じるからです。積極的に飲まない選択肢をえらんだいま、ずっと勢いでことを運んできた感受性が、もっと自然にまかせられるようになったのかもしれません。

 神さま、仏さま、今日の気づきを、ありがとうございます。

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