ひっこめる足、突きだす足――日本人の自己規律

 日本人は、つねに周りからの「お知らせ」に意識を向けています。いつでもしっかり受けとめて、自分が対応すべく、「気くばり」しています。「お知らせ」はあらゆるところから、自分へむけて発信されるのを、知っているからです。
 
 ある日、電車のボックス席。ななめ向かいに座っていた50代くらいの男性が、両脚をガバッと大きく広げています。私たち2人だけなのに、右ヒザを無理にも内側へ引っこみつづけなきゃならんな~と思っていたら、私の右足の先がほんの少し彼の右のクツにさわった(ワザとではありません)。その瞬間、彼はサッ!と右脚を引っこめました。

これは、日本人としてはそれほど珍しい反応ではありません。彼は気が弱いのでも、神経質なのでもありません。人さまの迷惑になるから引っこめたのだけれど、そのさらに底には、全体の和を重んじれば自分も人さまも気持ちよく暮らせるという民族的な合意がある。だから引っ込めた。これも自己規律のなせるワザです。

 関西の大学で教鞭をとる日本在住数十年の米国人が、日本人の精神性として同じような光景を指摘しています。混んだ電車内で立っている人のカバンが、目の前の座席の人のヒザに知らずに何度も当たっていた。座っている人が「ン、ン」と軽く咳ばらいをしただけで、立っている人はサッとカバンを引っこめたーー。この日本人らしいやりとりに気づくこと自体、日本のこころに精通している方ですね。

 それらと正反対の体験をしたことがあります。東京の地下鉄「大江戸線」の満員の車内で、立っている私のかかとを、後ろの人の足がグーッと押し動かしました。おそらく座っている人の足です。なにかワケがあるのだろうと、押されたまま、しばらくふり向きもしないでいました。ところが、電車がゆれた勢いで、私のかかとがその足をすこし押し戻してしまいました(これもワザとじゃありません)。マズイかな、と感じた瞬間、その足がさらに強い力でギューと押し返してきた。

 これは平均的な日本人の感覚では、ありえない事態です。よほど質(たち)のよくない相手か、ヘタしたら「その筋の人」だと直感してゾッとしました。それがふつうの日本人の感覚です。私は相手を挑発しないよう、ふり向かず、足も押されたまま動かさずにいました。

 何駅か目でおおぜいがおりたタイミングで、さりげなく後ろを見ると、白人の親子づれが足を投げだして座っていました。息子がおそらく180センチあまり、父親はそれより大きいのに、2人とも寝そべるように座っています。その父親のほうの足が、私のかかとを押し動かした「犯人」でした。日本に住んでいない、たぶん旅行者で、自国での「マナー」が日本という外国にきても自然と出ただけなのでしょう。

 ああ、外国人だったのか、と安堵しながら、2つのことを感じました。まず、私たちの日本という国は、ふだん何げなく動いているように見えて、実は、みんなが少しずつ気配りをしあって、遠慮しあって、ガマンしあって、そうしてお互いに過ごしやすい社会を実現しているということ(完璧でないにしても)。次に、どの国かわからないけれど彼らの国では、これだけ混んだ車内でだれかの足をグーと蹴り動かしても、それが失礼にならない、見方によってはゆずりあいという文化のない社会なのかな、ということ。

 しかし、「引っこめる足」の社会と「突きだす足」の社会をくらべてみて、どちらが暮らしやすい国だろう?答えは明らかでしょう。「対立」をさける文化のほうが、誰にとっても気持ちが安らぐに決まっています。「引っこめる足」は平和をつくるが、「突きだす足」は戦争をつくります。

 別の日に、ボックス席でこんな光景も見ました。私の向かいの席に、若いお父さんと小学校1年生くらいの男の子が乗ってきた。その子はすわるなりファミコンをとりだし、座席に寝そべるように脚をなげだして、ゲームをはじめました。父親がほんの小さな声とそぶりで「ちゃんとしなさい」。息子はすぐ姿勢をただしました。まだまだ日本では、こうした公共のマナーが若い世代にも受け継がれているんだな、などと感心しているうちに、また息子のお尻がずるずるとすべって背中で席にすわりそうな恰好になった。どうなるかと思っている私のまえで、息子は自分でスッと姿勢をなおしました。父親はなにもいわずに本を読んだままでした。坊やの「自己規律」の瞬間を、目撃したわけです。

 311の東北大震災のとき、日本人の自己規律は世界で賞賛されました。海外で報道されたほどに完璧でなかったにしろ、諸外国で大災害のあった場合とくらべれば、日本人の行動はほめられて当然だったと思います。この親子にみた光景が当たり前のようにひろがっている国であるかぎり、大地震でも他者への思いやりを忘れない行動ができるのでしょう。

 Jリーグのあるチームを指揮した世界的な名監督が、「日本人はこれだけの素晴らしい社会を作りあげているのに、その価値を日本人自身が知らない。欧州は『弱肉強食』であり、日本のような思いやりの社会ではない」(主旨)と語ったという「ウワサ」をネットで見かけたことがあります(出典を確認したいのですが、不明なままです)。もし本当にこう言ったのだとしたら、その監督も日本在住の間に、上記のような日本人のこころをなんどか目撃した末の評価なのかもしれません。

 日本人がうぬぼれでも卑下でもない本当の自信をとりもどすカギは、私たちの「いのちのコスモロジー」が宇宙の摂理にかなった価値あるものだと認識することでしょう。人さまに迷惑をかけないこころの強さは、自己主張や筋肉の強さより、はるかに大切です。

 神さま、仏さま、今日の気づきを、ありがとうございます。

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