ボケ~とするだけ、神さまとつながる暮らしかた

 ボケ~として何もしない時間というのが、人間にとって大切だとつねづね思っています。単純にいやしになるだけではありません。レイキと同じことで、ボーとしている間に、脳や神経、もっと深くは魂までもが、神さまとつながるというか、「お知らせ」「導き」を意識的、無意識的に受けとれる、と感じるからです。

 そして、それができる時間をスマホやらケータイに費やすとしたら、それは、もったいないことです。いや、正確にいえば、ぼけ~とできる時間に、意識をスマホ画面に取られるのが、むしろキケンということです。

私は、海や山をながめてボケ~とするのが大好きです。そのときには音楽やラジオ番組もほとんど聴かず、本を読んだりもしません。

 キザなことをいいたいわけじゃありませんが、海では自然の波の音と形、風の音と肌にあたる感触、日の光と熱、鳥の鳴き声、飛ぶようす、波打ちぎわで遊んでいる人たち、海面をはねる魚。こういったものをながめて、聴いて、さわって、匂いをかいで、そうしてボケ~としています。

 これと反対に、いつも「何かする」くらし方は、人間の心身の自然なリズムを狂わせていると思います。ほんの少しのすきま時間にもスマホ画面を凝視するような生活では、その人のいのちまでもが「カネモーケする側」に搾取されているみたいに感じます。巨大資本が「便利」を錦の御旗に、私たちから大切ないのちをカネにかえてうばっているのが、現代日本の姿のように感じることが多々あります。

 本当は、何を「する」かよりも、何を「しない」かの方が、大切なのではないでしょうか。現代日本の「食」に似ている気がします。何をどう「食べる」かよりも、何をどう「食べない」かの方が大事という。 

 そして、「しない」と、神に近づきます。「人為」がうすまるからです。ボーとしているときは、気の流れをさまたげる自我のカベが低く、うすくなるからです。それはたとえば、青森「ねぶた祭り」の、「眠たいは神にちかづく」という発想とおなじです。チベット仏教にも、眠りそうになって「うつらうつら」状態を持続する修行法があるくらいです(あのダライラマ14世が実践するのを、動画で見られます)。

 スマホ、ケータイ、ゲームなどでスキマ時間をつねに埋めるのは、宇宙からのみちびきや加護をつねに拒絶する暮らしかたです。人としてソンな、もったいない生き方です。「宇宙」といって違和感があるなら、「自分を超えたおおきな力」といいかえてもいい。つまりは神さまです。

 ボケ~とする生活習慣 X 生きてきた年数 = 健康の度合い

ということが、かなりの程度、いえるように思います。自分の実践からです。

 養生とは、なにも特別のことではありません。
 ふだんの暮らしのなかで、ほんの少し心がければ、長い人生のなかで健康の太い流れを育て上げることが、できるのです。

 神さま、仏さま、今日の気づきを、ありがとうございます。

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