モノにも、こころがある

 子供のころ、母から受けた教えで印象深いのは、モノを大切にすることです。「モノにも心がある」と教わったように思います。私がかんしゃくを起こしてモノを壊したり、ぶちまけたりすると、「モノに当たるのは、人間として一番恥ずかしいことだ」と、きつく叱られました。

 もの言えず、動きもとれないモノ(戸板でも机でも)にも心があるから、それに人間が自分のエゴ、怒りをぶつけてひどい扱いをするのは、最低の行いだという教えです。人間には「万物の霊長」としての責任がある、人間はそういう存在であることを自覚しなさい、という意味が込められていたのだと思います。

 人間は、この宇宙150億年の進化の最先端に位置しています。モノをさわったりつかんだりできる手と、モノを見ていつくしむ目という道具を、神さまから与えられています(手からも目からも、レイキが流れ出ます。目からある種のエネルギーがでて、見られるモノに影響を及ぼすことは科学的に根拠のあることです)。まわりにあるモノを、人間はどうにでもできる立場に君臨しているわけです。自分の利益のためにモノを利用するかわりに、そうしたモノたちに愛情もって接する責任もある。

 そうした考え方が、別に特別な学校で教育をうけたわけでもない母にしみついているのは、昔の日本社会の文化力のおかげだと思います。母もまた、家族や親せき、ご近所さん、小学校の先生など、ふつうの日本人の言葉や立ち居ふるまいにかこまれて成長するなかで、モノを大切にする日本伝統のこころを育まれたのでしょう。
 
 そもそも、すべてのモノにこころがやどっているとか、命がある、という見方をする国は、すくなくとも先進国といわれるなかでは、日本だけではないでしょうか。日本在住50年になるある知日外国人は、初来日のころにこの見方を知ってからは、皿を割ってしまったとき、とても悲しく泣きそうになったと語っていました。

 私の好きな映画に、ケビン・コスナー主演の『ボディガード』があります。こころに残るシーンがいくつかありますが、一方で、どうしても好きになれない場面もあります。ホイットニー・ヒューストン演じる人気歌手の邸宅で襲われたコスナーが、わざわざ食卓のうえに相手を腹ばいにさせて、滑らせるようにぶん投げるシーン。

たくさんのグラスが床に落ちて、けたたましい音をたてて割れます。コスナー扮するボディガードがこんなに強いという演出ですが、日本古来の文化から見れば、「大人のすること」ではありません。モノに対する愛情を心得ない、幼稚な「八つ当たり」です。

ベトナム戦争のとき、収穫直前の田んぼで何台もの米軍の戦車が、実ったばかりの稲を縦横無尽に踏み倒してスポーツカーを乗り回すように走り回るのを、日本人記者のルポで読みました。生き物、自然、食べ物にたいする尊敬の念が欠落したふるまいです(万が一、昔の日本軍がアジア諸国で同様のことをしたとしたら、恥ずべきでしょう)。

モノを大切にする文化は、いまの日本では私の子供時代とくらべると、希薄になっているように感じます。その大きな出発点はどこかとさがせば、やはり明治維新、それからわずか80年後の終戦(アジア太平洋戦争の終結)という2つの「白人文化の大襲来」につきあたると考えざるをえません。

白人文化の「ばらばらコスモロジー」によって、日本古来の「つながりコスモロジー」は、現在進行形で破壊されていると、思います。

そうだとしたら、それをくいとめるには、どうしたらいいか。考えながら、ブログを更新していきたいと思います。

神さま、仏さま、今日の気づきを、ありがとうございます。

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