ラーメンの味も、決め手は「もの」より「気」       

 いまや世界じゅうで人気の日本のラーメンですが、レシピどおりにつくっても同じ味はだせないと聞きます。私が前に住んでいた町に、インターネットのランキングで数年間、東京全体のトップに君臨していた名店がありました。そこの若い人がのれん分けを許されて、本店のすぐ近く、歩いて10分足らずの駅前に出店したのですが、半年で閉店しました。

 一番の原因は、単純に「味」なのでしょう。私をふくめ一般の客には「おいしいね」で済んでも、舌の肥えた日本人のラーメン愛好家からみれば、なんか本店の味とは違うよなということでしょうね。創業者のご主人に「こいつなら」と見込まれるほどの優秀な料理人なのに、そして毎日のようにそのご主人のすぐ脇で修行してきた人であっても、教わったようにつくっても同じ味は出せないということのようです。

 『東池袋大勝軒』の創業者で、「ラーメンの神さま」とよばれた山岸一雄さん(故人)のドキュメンタリー番組のなかには、そのことを職人さんがはっきり口にする場面がでてきます。ご主人の山岸さんに言われている通りにスープの仕込みをしているお弟子さんが、「同じように作ってんのに、おなじ味にならないんだよね」とつぶやきます。

 これは、料理もまた「もの」で決まる世界ではないという証拠なのではないでしょうか。料理のレシピを伝えるとき、「塩小さじ1杯、しょうゆ50cc…」と客観的な分量を伝えるのは、いってみれば「必要悪」です。レイキの「基本12ポイント」と同じです。本当に味を決めるのは、調味料の量ではなく、作り手の「気」なのだと思います。

 いわば料理人の高いレベルの「気」が、野菜や魚などの食材や調味料という「モノ」の「気」を同調させて、おいしい「気」の存在に引きあげる工程が料理なのだと思います。煮たり焼いたりという物理的な作業は、作り手の「気」を高めるための具体的な方便ではあっても、本来は「二の次」といっていいことなのかもしれません。

これは同じ日本文化の武道、たとえば剣道でも同じことがいえるように思います。「メン!」や「コテ!」などの物理的な作業は、本人の「気」を高めるための、ただの具体的な方便といってもいい。肝心なのは、体というモノを動かす作業をつうじて、「気」を養うことです。筋肉や筋を太く強くしてスピードを高めることではない。だから昔の剣道の高段者には、人格の優れた先生が多かった(今はどうなのでしょうか)。

話を料理にもどすと、だから料理人がふだんの仕事をつうじて養うのは、レシピ通りにつくる正確さよりも、本当はより高い「気」なのだと思います。それゆえ日本の料理人は昔から、「食材を大事にあつかえ」「道具に愛情をもって使え」と厳しく言い伝えてきたのではないでしょうか。愛情をそそぐほど、モノは人間の「気」にしたがってくれますからね。野球のイチロー選手が道具を大事にあつかったのと同じです。

 そういう料理のデキを決定する本質的条件を度外視して、客観的ものさしで質量さえそろえればおなじくおいしい料理ができるという考え方は、食材をも料理人をもモノ扱いする「ばらばらコスモロジー」的な見方といえるかもしれません。

 アインシュタインが100年前にあらわした E=MC2(2乗)は、この世は「モノ」でできているが、その本質はエネルギー(つまり「気」)である、と教えてくれています。その目でふだんの暮らしを見たとき、その一つの例がラーメン作りという世界にも表れている、ということではないでしょうか。

 日本古来の文化は、こうした見えない「気の世界」を重視する文化です。そこからさまざまな習慣、風俗、好き嫌いの発想、などなどが派生しています。

 最後に、料理についていえば、日本人の一流の料理人は、食材の「気」を、いわば共感的に理解できるのではないかと、思います。

だからこそ、日本では「ラーメン道」だの「野球道」だのといった言葉を一般人が聞いても、違和感がないのです。ラーメン作りに励むこと、野球に精進することがすなわち、自分の「気」を高めて宇宙と一体化する「道」につながっているからです。

日本はそういう国であり、日本人とはそういう「こころ」の民族なのです。


  神さま、仏さま、今日の気づきを、ありがとうございます。

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