丹田を意識して暮らすと、大宇宙の気が高まる

 朝めざめるとすぐ、ふとんのうえで丹田に意識をむけて深い呼吸を心がけます。ついさっきまで眠っていて腹式呼吸になっていたはずですが、意識がめざめたら、意識を丹田に「わざわざ」むけて、深く吐きます。

ときには、ひと晩じゅう足元を温めてくれた湯たんぽを太ももにひきよせて、大腿部をあたためながら、レイキを頭部にながす。これが、朝から気持ちいいんです。心地よい、朝のたのしみです。

 朝のうちに聴いた音楽が、午前中いっぱい、ときには一日じゅう、心のなかでくりかえし流れる、という経験が、誰にでもあると思います。呼吸もおなじで、朝のうちに深い呼吸をつづけると、その後のずいぶんと長い時間、それほど意識しなくても、理想的な呼吸を保ちやすくなります。このことの心身への好影響のほどは、はかりしれません。だから、「朝いちばん」の丹田呼吸が、心地よいのです。

 おそらく昔の日本人は、起きている間じゅう知らずに丹田にずっと意識をむけて一日をすごす、というのが自然にできていたんではないかと、私は思います。この日常的な「丹田中心」の意識状態が、日本人のものの考え方、感じ方、とらえ方の核をつくってきたといっていいのではないでしょうか。それが極端に少なくなったのは、明治維新のあと、たぶんここ150年くらいのことと思われます。

 そして、この精神的な伝統が人間にとって非常に価値あるものだったことは間違いありません。宇宙のよろこぶ、民族の宝物でした。

 人間は、この循環するモノ世界のなか、「ここ」に肉体をあたえられて、「いま」に生かされています。小宇宙たる人間がその中心である丹田に意識をむけることは、大宇宙の中心に意識をむけることです。つまり人間は、自分の丹田に意識をむけることで、自分を大宇宙の中心に位置させることができる。昔の日本人は、理屈でなしにそれを心の底で理解できていた。そういう暮らし方こそが、日本人にとって「生きる」ということだった。私は、そのように思います。

 そして、こうした生き方こそが、宇宙が150億年かけて人間を誕生させた理由のひとつではないでしょうか。これこそ、宇宙のよろこぶ「人間の仕事」です。民族も国境も、人種も宗教もこえた、人類共通の尊い暮らしかたです。

 その理想的な暮らしかたに、朝起きてすぐ自分をのせてあげる。自分の意識をその理想の周波数にのっけてやる。「いのちの暮らし」がはじまります。

 私の解釈では、丹田に意識をむけるとは、そういうことです。意識をむければ、丹田にエネルギーが流れ込みます。つまり日本人は、日々の暮らしを送りながら、大宇宙の「気」を高めてきたといえるのではないでしょうか。

 重ねていえば、日本人にとって「暮らし」とは、そういうものでした。だからこそ、日本人がとりくむあらゆる「こと」は、「道」になったのです。ただお茶を飲むだけのことが「茶道」に、ただ棒でたたき合うだけのことが「剣道」になる。つまりは宇宙と響きあう道具にまで磨きあげられる。

つまりはそこにまた、「神さま」が生まれるのです。まさに古事記の世界がそのまま「現実世界」になっているわけです。

 日本人にとって、「生きる」とはそういうことだったのです。

 そういう日本人が2800年にもわたって築きあげてきた「いのちのくに」が、いま滅ぼされつつある。

 丹田に意識をむけるときです。

 神さま、仏さま、今日の気づきを、ありがとうございます。
 

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