気のながれを大事にするから「とりあえずビール」

 日本人同士の飲み会で、始まりによくあるのが「とりあえずビール」。最初はとにかく、みんなビールで統一して乾杯し、それから個々に好きな飲み物を注文してゆけばいい、というやり方ですね。

 これを日本在住の外国人同士の飲み会で再現しようとしたら、みなメニューとにらめっこして、最初からてんでに自分の飲みたいものを選ぼうとするので、なかなか飲み会が始まらない、という様子を以前にテレビ番組でやっていました。テレビなので、制作側の意図的な演出もはいっているのかもしれませんが、大筋では、外国人の飲み会ではこんな感じだろうなと感じさせられます。そしてこの日本人との対比を、私は興味深くみました。

 すぐ浮かんだ素朴な気づきは、気の流れに敏感で、それを重視する日本人と、そうでない外国人との違いということです。日本人は、一同に会した参加者たちみんなの「さあ、楽しい宴会を始めようぜ!」という「場」に流れる「気」の盛りあがりに敏感で、それを大事にします。

だから細かい好き嫌いはわきに置いて、とにかく最大公約数的に不満のすくない「ビール」で開会してしまおう、ということですね。最初からみんながそれぞれにメニューとにらめっこして時間をダラダラ経過させたら、出鼻をくじかれます。

 そしてそれよりむしろ、日本人にとっての宴会の意味あい自体が、諸外国の人たちとは違うという面が大きいのではと思います。日本人の飲み会は、個々人が意識する・しないに関わらず、「気を補充する」意味あいが大きい。無意識のうちに、仕事は「ケ」、飲み会は「ハレ」と区別をしているのではないか。これは外国人が日本人の飲み方をみて「仕事でまじめな人が、飲むと急にだらしなくなるのは、なぜ?」という疑問への答えにもなります。

 だからこそ、気の流れを最初からつぶすような始め方をしたくない。これに反して、外国人には「気を意識する文化」自体がない(というに等しい)。だから、宴会の始まりの「気」をそこねるのなんの、という感覚自体がない。そうではないでしょうか。。

  意図をおさえて「気の流れ」にのる

イエス、ノーを「はっきり言える」外国人、一方、どうしたいのかを「はっきり言えない」日本人。日本人も、日本人の作るものも、日本人のサービスも「繊細」ーー。

 おおくの日本人が、こういうイメージを自分たちと外国人にもっているのではないでしょうか。日本人自身が、テレビなどのメディアで日々、こういうふうに「日本像」を発信しているように思います。「繊細」という表現のうらに、「弱い」「もろい」「ガツンとした強さがない」という印象がかくれているように感じることもあります。

 果たして、そのとらえ方は正しいでしょうか?

 日本人がものごとを「はっきり言わない」理由は、1つには「受けとる」側が主体となる精神文化にあると思います。しかし、ここでは「気の流れ」に敏感だから、という側面で書いてみたいと思います。

 私なりの解釈をいいますと、日本人は人間がしゃべり言葉で「ノー」という意図を表明することにより、気の流れを止めてしまうのを好まないのだと思います。「言霊」という観点からも、「人間が意図をしめすより、気の流れに任せたほうがうまくいく」という見方からも、そういえます。こういう精神文化は、たとえば日本の芸能人が自分の願望から芸能界入りしたといいたがらない例にも、表れています(別項)。

 昔からいわれることですが、そば屋が「出前はまだか」と催促の電話を受けたとき、定番の答えは「いま出たところです!」。これもただの言い訳ばかりでなく、お客にどんどん商品を提供するぞ、という売り上げへの気の流れを意識するなかででてくる肯定的な言葉づかいとも解釈できます。

否定的な言葉を使わない。あくまでも気の流れにそった肯定的な言葉だけをつかう。気の流れにのることが万事うまくいかせる一番のキモだ、という日本人の感性が、ここにも表れているのではないでしょうか。

 こういう話になると、まえに働いていたそば屋の店長の言葉づかいを思い出します。東京のビジネスマンがわんさか来店する駅前のそば屋です。昼の混雑が少しゆるんだかなというタイミングで、店長が大きなナベを洗っている所へ新規のお客が入ってくるとします。お客のほうが「あれっ?掃除中かあ」と食券出す手をちゅうちょする素振りでも、ナベをタワシでゴシゴシ洗いながら、「はい、ご注文は?」「いまお出しします」。

実際に、さして待たせることもなく、商品をそろえてしまう手の速さもスゴイのですが、私の興味深かったのは、彼の心の姿勢とそこから選ばれる前向きな言葉です。お客に商品をだすまで、「待つ」というような、流れを否定するような言葉を極力、使わない。このときにはもう、レイキを習って時間がたっていたので、すぐそこに気づきました。

もちろん、本当に待たせてしまうときには「少々お時間いただきます」と注文受けと同時に知らせるのが鉄則です。しかし、この人は遅めの場合でもそこそこの時間内には料理を提供できる技術が身についているからではあっても、言葉の使い方に、上達するとこういう言葉づかいになるんだろうな、と私が勝手に解釈してひそかに感心するようなところがありました。

この方は別にものすごい達人といわれているわけでもなかったですが、日本人は一つの仕事を極めていくと、気の流れに自然と敏感になり、この人がもっと熟練した延長上に、モノと対話しながら作品を創りあげる「名工の世界」が広がっているんだろうなあ、という予感を感じさせました。彼自身に「気」の世界がどうのこうのという自覚は、ないと思いますがね。

  日本の精神文化に正当な自信をもとう

 日本人のやること、考えつく発想には、注意してみるとこうした「気の流れ」を肯定する、促進するようなものが多いように感じます。日本人は、この世がモノでできてはいるが、その本質はエネルギー、つまりは「気」でできている、「気」のめぐりにのっているのが大事だ、ということを心の底で熟知しているように思います。

 これは、日本人という民族ができあがる前から大自然との間であったいろいろな経験が、日本列島に住む人間たちの集合的な感受性のなかで溶けあい醸成されてでき上がった、「民族に共通する基本的な感受性」というべきものだと思います。

非常に精妙な「気」というものを一瞬、一瞬に、体感しつつ生きている人たち。それが日本人です。

理由はカンタンです。この世はモノでできてはいますが、その本質はエネルギー(気)だからです。アインシュタインの E=MC2 (二乗) が教えてくれる世界ですね。世界のノーベル賞級の科学者たちが支持している宇宙観です。

 さて、もう何年前でしょうか、「KY(ケイワイ=空気を読めない)」という言葉が流行ったとき、面白い現象だと思ってみていました。日本人からの反応として、「空気を読む」なんてのは、いかにも日本人らしい、ジメジメした遅れた習慣だ、みたいな批判を日本人から聞きました。日本人が、日本人の精神文化に自信をもてないという現象です。いや、日本人が、自分たちの「こころ」の宇宙的な価値を、理解できていないのです。教えてくれる人がほとんどいないからです。

 目に見えるものしか信じない外国人には、「空気を読む」ことができません。しかし、日本に生まれ育った日本人が、「空気を読む」能力のすばらしさを理解できていないことは、民族的な悲劇であり、宇宙のよろこぶ状況ではありません。

 この宇宙に、私は何を差し出せるでしょうか。

 神さま、仏さま、今日の気づきを、ありがとうございます。

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