手を当てるだけで、「与える」生き方ができる

 レイキをはじめて1年もすると、レイキで「与える生き方」ができるんだな、と実感していました。「人からエネルギーをうばう生き方」におちいりがちな人間でも、人さまに自分の手を当てるだけで、「与える」という価値ある生き方ができるのです。

 このことに気づいたときには、感動しました。もちろん、レイキなどしなくてもできることですが、レイキでは手を当てる「だけ」なのです。しかもその世界にはいるには、アチューンメント(という「気の調整作業」)をうけるだけです。これはすごいことだ、ありがたいことだと、思いました。

 レイキを実践していくと、「この世はひとつながり」ということに意識がむくようになります。自然とか環境とかを含む他者と自分の思いとが、まったく無関係にばらばらに存在しているわけではない、自分の思いや行動が他者に影響をあたえ、やがては自分にかえってくるということに、だんだん敏感になっていきます。

 そして、その「ひとつながり」のなかで、人間というのは「こころのエネルギー」を人とのあいだでつねに奪ったり奪われたりしているんだな、と気づくようになりました。自分がいい気分になったり、幸せになったりする(自分のエネルギーを高める)ための手段として、自分で努力したり人さまに「与える」やり方を選びたいものだと考えるようになりました(なかなか理想的にはできませんが)。人に与えれば、いつかはよりよい形になって自分にかえってくる、という「エネルギーの法則」めいた話は、自分の体験からうなづけることも出てきました。

 反対に、人のエネルギーを奪うやりかただと、相手を傷つけるのはもちろん、いつかはより良くない形で自分にかえってくる。単純にソン得でいっても、それはかしこい選択ではありません。

 第一、「うばう生き方」は、どんどん自分を苦しくします。宇宙のよろこぶ生き方でないからです。人間というのは、本質的にそういうふうに創られているようです。ここにも「万物の霊長」たる所以があるのでしょうね。

 般若心経にならって考えればーー
 宇宙の真理にそった生き方をすれば、恐怖はいつも心にないでしょう。宇宙本来の姿とことなる一切から遠くはなれて生きられます。しかし実際の自分をみれば、それとは反対の生きかたをしてきたかもしれません。どうでもいいことに苦しみ、怒り、恐れて、振りまわされて、長い時間を浪費してきたように感じます。
 
 宇宙観が心の底でゆがんでいたので、恐怖と「転倒夢想(てんどうむそう=正しい見方と反対の見方)」ばかりだったように思います。「うばう生き方」の方が、「与える生き方」より多かったようにも感じます。

 しかし、そういう人間であっても、レイキをやるだけで「与える生き方」が、一応できます。宇宙観がまちがってさえいても、人さまに手を当てるだけで、その間は確実に「与える生き方」がとりあえずできます。

 こう考えると、レイキはむしろ「善人」より「悪人」のための道具かもしれません。自分勝手で我の強い「自己チュー人間」にこそ、宇宙はレイキを贈ってくれたのかもしれません。

 宇宙はそうした人の「我(が)」を、その分しっかりと溶かすために、レイキという道具を人間の世界に与えてくれたように感じることさえあります。自意識過剰でも、逆の効果、向こう受けをねらった言葉ではありませんよ。

 そして、「我」が世界的にみて相当にうすい日本人という民族に「偶然」という衣をまとって「発見」されたレイキが、地球上で「我」のより強い地域へむかって浸透してゆくことを、宇宙は望んでいるのかもしれません。

 それはまた、人類の長い歴史で主流となってきた「うばう生き方」を「与える生き方」に、オセロのように転換させることにつながれば素晴らしいと、考えます

「あなた、誇大妄想ね」と笑われそうですが。

 神さま、仏さま、今日の気づきを、ありがとうございます。

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