敬語の誤用は、「日本のこころ」崩壊への警鐘    

 「いただく」という敬語の誤用が耳に障るな、と感じはじめて、もうずいぶんたちます。テレビ、ラジオの番組で気づくことがほとんどです。つまりは日本語のしゃべくりのプロが、言い間違えている。

「田中さん『に』来ていただいた」というところを、「田中さん『が』きていただいた」と言って、そのまま番組がつづきます。「いただく」をつけるときにはかならず、「~に」という表現になるのが正しい言い方ですね。これを「~が」で言ってしまう例を、このごろしょっちゅう聞きます。

「田中さん”に”来ていただいた」といえば、田中さんに対しての「私の敬意」を示すものです。これをもしも「田中さん”が”来ていただいた」といえば、来てくれた誰かに対しての「田中さんの敬意」を示します。敬語によって、田中さんと私の関係は決まります。

なにもエラそうなことをいえるご立派な人間でもないのですが、決して小さな問題ではないと思います。ときどき話題になってきた突飛な若者言葉とは訳がちがいます。公共の電波で、お手本になってほしい方々から誤った表現が続いて当たり前になってしまうと、テレビの影響力の大きさを考えれば、日本の将来を担う子供たちへの影響は甚大です。

 日本語は他者との関係性をきめ細やかに読みとって表現される言語です。周囲の状況に敏感に反応できる言語です。英語など欧米の諸言語のように「オレが」「アタシが」と、本人の意図というか「我(が)」を押しとおす言語ではありません。

日本語は状況を表現するなかで自分という我(が)は最小限にとどめる。極論すれば、日本語は平和をつくる言語であり、英語は戦争をつくる言語です。「我」の突き進むところ、衝突の果ては戦争になるからで、これは突飛な表現でもないでしょう。

 その日本語で、他者との関係性がもっとも敏感に反映されるのが、敬語です。ですから敬語の乱れは、日本人が他者との関係性に鈍感になってきた表れだと、私は思います。由々しき事態です。日本人の精神性を支えてきた「つながりコスモロジー」が、崩れてきている反映ということです。

敬語の乱れは、日本語と「日本のこころ」が崩壊に向かっているという警鐘ではないでしょうか。「ばらばらコスモロジー」による侵略を明治維新以来受け続けてきた歴史からみて、決して「そんな大げさな」という問題ではありません。

 それにしても日本語学の権威みたいな先生がたからは、危機感の声が聞こえません。単に私の耳に入ってきていないだけなのか、最初から問題視していないのか。

 私ごときが、「日本語と日本文化の危機だ」と発信していかなければならないのでしょうか。

 神さま、仏さま、今日の気づきを、ありがとうございます。

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