日本語の「きれいな言葉」が、日本を支えてきた

 昔の話ですが、海外の人たちと特におつきあいの多い時期がありました。楽しく遊んだり、ケンカもしたりするなかで、日本人とのものの見方の違いも同じ点も学べる経験は、若い私にはとても魅力的でした。そのなかで気づいたことの一つに、言葉づかいの違いがあります。

 日本で日本人とつき合っているうちは気づきにくいことですが、よくない言葉づかいが日本人はきわめて少ないようです。というか、日本語が本来そういう言語のようです。

耳障りのよくない言葉自体が少ない。とくに人をののしる言葉、さげすむ言葉、その表現方法が、きわめて少ない。というより、日本ではそういう文化が「発達しなかった」というほうが正確なのかもしれません(香港人とこの話題になったとき、広東語には「汚い言葉がすごく発達してるんだ」となかば自慢していました)。

 ケンカのときに相手を攻撃する言葉を、日本語からさがそうとしても、「バカ」とか「マヌケ」とか、それと同程度の言葉くらいしか思いつきません。昔の言葉でいえば、「お前のかあちゃん、でべそ」くらいの、かわいいものです。ほかに、えげつない言葉や表現が、日本語にあるでしょうか?

 それが、外国では国ごとに濃淡はあれ、下(しも=性器関連)の言葉や、相手の母親の性的な好みみたいな言葉でののしる「文化」も、「発達」しているようです。長い歴史のなかで培われた「文化」でしょうから、いまでも大きな変わりはないと思われます。これは身近な外国人からだけでなくても、彼らの映画だの小説だのからもにじみ出てきて、感知されることです。

 私のこうした見方が間違っていないとすれば、その違いはどこからくるのでしょうか?その原因は、やはり、宇宙観に帰するのだと思います。

 日本人は、自分の言葉が宇宙に響いて、やがては自分自身の人生に影響を与えるということを、知っている民族なのだと、思います。だから、自分の言葉づかいに慎重で、あえていいますが、思慮ぶかい。ある日本好きの外国人が、「日本人は、大人なんです」と動画サイトで投稿していますが、ただのお世辞でない、外からの正当な評価と日本人は受けとってかまわないと思います。

日本人は、自分のしゃべり言葉が自分の宇宙(それを「世間」とか「世の中」と言いかえるにしても)を形づくるから、気持ちのよい言葉、前向きな言葉を口にするよう、いってみれば子供のころから日常的に訓練されています。世間、つまりは周りの大人たちの影響下で、言葉に責任をもつ意識を自分でも気づかぬかたちで育てられてきたのです。

 日本は、いってみればユーラシア大陸の東のはじっこに浮かぶ小さな島国にすぎません。それなのに、欧米列強が世界中に植民地をわれ先に獲得していった時代にも独立を守りぬき、戦後も高い文化、経済水準をほこって世界に影響をあたえる存在でありつづけてきました(いま米国の植民地だという指摘もありますが)。

 そのもっとも大きな「力」の源は、ひとつにはこの宇宙観による言葉づかいにあるといってもいいと思います。中世最大の国難だった元寇をはね返した原動力が、実は日本人の2人に1人が実践していた「お念仏」にあったという見方に、私は賛成です。

 宇宙が人間一般に期待すること、つまり人間にとって大切なのは「特別なこと」ではなく、もしかしたら「ふだんから、ふつうにできること」だ、と思わされる話です。

その一つが、ふだんの言葉づかいではないでしょうか。私たち日本人は、こんなにも素晴らしい言語をなんの支払いもせずに生まれながらに身につけてきたのです。その言語をしゃべるだけで、宇宙の「いのち」が感じられます。

日本語は、「いのちのことば」なのです。

自分の言葉づかいをあらためて見直しつつ。

 神さま、仏さま、今日の気づきを、ありがとうございます。
 

コメント

タイトルとURLをコピーしました