穀霊のエネルギーに心身を同調させるーーお花見

 私は日本生まれの日本人です。この細長い島国で育ちました。とうぜん、日本古来の文化、習慣、ものの見方、感じ方のなかで、私のものの見方、感性も育て上げられてきました。これまでお念仏やらレイキなど日本的な実践をとおして私が気づいた日本の伝統的な宇宙観について、「お花見」を例に、書いてみたいと思います。

 今年の春は新型コロナ感染の影響で、ゆったりとたのしむ余裕もなかったかもしれませんが、日本人にとって、「お花見」は大事な行事です。冬の寒さがやわらいで、各地から春の気配が伝えられ始めると、職場や家庭などでは、「今年のお花見」が話題となり、テレビ・ラジオ・新聞の天気予報では、桜の開花予想がとりあげられます。外国で、その話を小学校の授業でしたら、生徒が声を上げて笑ったといいますが、日本には「サクラ前線」という言葉で開花時期をメディアが伝える帆と、人々の関心をあつめる重大事です。

そして、いまや桜は世界の国々で植樹されているようですが、日本式のお花見の習慣は、世界的に広まってはいない日本独自の文化のようです(白幡洋三郎『花見と桜〈日本的なるもの〉再考』PHP新書00年)。お花見のとき、「花見」つまり花を見るといいながら、宴会で飲んだり食べたりに夢中になって、ちっとも花なんかみていない、ということが当たり前にあります。日本人のなかにも、こういうところが日本人はいいかげんだなどという人がいますが、実は、日本人は花そのものを見るためにお花見をするのではなく、花が開いたそのエネルギーのなかに自分の心と体をひたして、自分の魂を高める、いやすということのためいう宴会をするのだと、いつのころからか、私は思うようになりました。

 日本人は「気」という精妙なエネルギーに敏感です。冬のあいだ一度死んでからまた増えた生命が(冬の語源は「増ゆ」らしい)、春になって気温があがると桜の花の姿をかりて一斉にこのモノの世界に形となって吹き出す。そのエネルギーの爆発を、古来、日本人は感じ取って、愛でてきました。その形が「お花見」です。

 日本人の学者が言った言葉に「花びらは散る。花は散らない」というのがあるそうです。モノとしての「花びら」はじきに散って死んでしまうけれども、「花」というエネルギーは一緒には滅びない、という意味でしょうか。人間とおなじですね。人の体はせいぜい100年くらいしかせいぜい生きられませんが、その精神の気高さは人やモノにやどって、体の死んだ後もこの世に残ります。

 先日テレビで沖縄の「ビーチパーティ」という習慣をみて、「これも花見と一緒だな」と気づきました。内地の人間の感覚では、あれだけきれいな海が広がっているのだから、毎日海で泳いで遊びたいと思うのですが、現地の人たちにとって、海は「ながめるもの」であって、ほとんど泳ぐことはないといいます。そして、砂浜にだしたテーブルを大勢でかこんでバーベキューをしてお酒を飲んで楽しむ。海もちゃんと見ないで、飲み食いするのだそうです。

 この沖縄人にとっての海は、お花見のときの桜とおなじだと思います。エメラルドグリーンの海が美しくかがやくエネルギーの発露に、自分たちの心と体をひたす。聖なるエネルギーに自分たちの魂を同調させ、さらに食事で取りこむエネルギーをより高くして摂取する。心身はアルコールでゆるんでいるので、さらに同調しやすい。亜熱帯の沖縄では1年のかなりの時期、こうした「エネルギー同調」が可能なのでしょう。沖縄の人には穏やかな人が多い印象ですが、年中、宇宙のよいエネルギーと同調しているから、魂が落ちついているのだと思います。

 また例えば、英国人はバラの花が好きだと有名ですが、私にはこう思えます。英国人はバラを自分という人間とは別々の存在としてみたうえで、「好き」「美しい」と鑑賞するだけかもしれません。これに反して、日本人にとっての「桜」は、自分とひとつながりの存在といえるかもしれません。

日本人が桜を見るとき、自分は桜であって、桜は自分である。昔、俳優で歌手の武田鉄也さんがラジオで、「人が桜を見るとき、桜も人を見ている」と(誰かの本の請け売りだったかもしれませんが)いっていたのを印象深く覚えています。

桜の花の咲く「歓喜の気」を人間がもらい、同時に人間が飲食してリラックスし、「歓喜の気」を桜にあたえる。つまり人間と桜が「気の交流」をしている。モノとしては人と桜はバラバラに離れているけど、実はエネルギーとしてはつながっている。

そして互いに互いを高めあえる関係だと、日本人は知っている。人が桜の花を「きれいだね」「今年も咲いてくれて、ありがとう」と人喜んでながめると、桜はよろこぶ。そしておそらく、それにこたえて、より美しく咲いてくれる。

そしてなによりも花見によって、人が自分をこえて他者とつながる魂の実感が、自分をいやし、高めてくれる。結果、宇宙が喜ぶ。宇宙の気が高まる。日本人の花見とは、そういうものだと思います。

  直接に花を見る、見ないは二の次。気の交流、たましいの交流が第一。桜と自分が深いところで「ひとつながり」であることを昔の日本人が体で知っていたからこそ始まって、今もさかんに毎年くりかえされる日本人独自の風習なのです。日本人にしか発想できない桜とのつきあい方、めでかた、暮らしかたです。

 ちなみに桜の語源は、「サ(穀霊)」「クラ(座=神のよりつくところ)」、つまり「穀霊のよりつく神の座」なのだそうです。神の座に降臨した穀霊がもっとも微笑む開花の瞬間に、そのすぐそばに大勢で集まって酒食をともにし、高次元のエネルギーに心と体を同調させる儀式。それが日本人の「お花見」の本質だと思います。

昔の日本人は、「花を見ていたけれども、さらにその奥にひそむ神さまを体感していたからこそ、お花見を暮らしのなかにとりいれてきた」といえるでしょう。いいかえれば、モノをモノとして見ずに、魂の表現として見ていたのでしょう。

「すべてのものに神さまが宿っている」という日本人の基本的な宇宙観からすれば、当たり前のことなのかもしれません。

 神さま、仏さま、今日の気づきを、ありがとうございます。

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