苦しんでいる私は、宇宙に認められている私

 苦しいときや辛いとき、それはオレが宇宙に認められているからだ、と思うようにしています。

 私たちが生きているということは、この「ひとつながり」の宇宙に場所と時間を与えられているということです。それは「そこに居ていいよ」と、宇宙が私の存在を認めてくれているからです。

 そうでなければ、とっくに宇宙から命を取りあげられて、この宇宙に居場所はないわけです。

 だから、その「苦しみ」は、お前を認めているから自分を変えて成長しろ、という「お知らせ」なのです。宇宙が私を認め、成長を願うからこその、私の苦しみです。

 大事なことは、その「お知らせ」の意味を読みとくこと。これは他人にできることではありません。自分でやる仕事です。この宇宙で唯一の考える主体である私が、その「お知らせ」を読みといて、生き方、暮らしかた、モノの見方、考え方を、修正することです。

 「なんでオレだけ、こんなに苦しいんだ?」とグチをこぼしそうになったら、「オレだけに届いたこの苦しみは、なんの『お知らせ』だろう?」と、問い直してみることです。この反問のクセが、人生の宝物になります。

 私が「いま」「ここ」に居ていいと、宇宙が認めてくれているから、それとセットにして「苦しみ」という「お知らせ」をくれている。つまり、認めてもらっていることと「苦しい」こととは、表裏一体です。

 認めてくれなくなったら、宇宙が私から「命」を取りあげるのはカンタンです。「やらせの雨」のタイミングを少しずらすだけで、青信号の横断歩道をわたる私に暴走タクシーが突っ込んできます。

考えてみれば、あの事故にははっきりと意味があった訳です。当初はどうしてこのオレが、信号無視のタクシーにはねられなきゃならんのだ!?と「運命」を呪いそうにもなったものですが、実はあの事故のおかげで、いま生かされているオレは絶対に、宇宙から存在を認められているオレなんだ、そうでなければ、宇宙はあんなにもカンタンにオレを死なせることができるんだから、と「ヘンな自信」が(すこし)ついたのです。

 さて、ナマケモノのオレが、なんでいまだに生かされ、この「ひとつながり」の一隅に居させてもらえるのか?

いつもこの疑問にかえってきます。ホントは、自分のなかではある程度の答えが出ている。いつも眠ったふりをして、それから目をそむけてきただけです。

 私が自分の暮らし方を修正したとき、「お知らせ」は役割を終えて去っていきます。ですからその修正は、宇宙ののぞむ「人間の仕事」といえます。

 神さま、仏さま、今日の気づきを、ありがとうございます。
 

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